持田哲郎(言語教師@文法能力開発)のブログ

大学受験指導を含む文法教育・言語技術教育について書き綴っています。

ゼミ発表資料(その2)

2010年5月7日にゼミで発表したレジュメを転載いたします。

メタ言語能力

メタ言語能力と外国語学

メタ言語能力と外国語学習との関係としては、2つの仮説を考えることができる。ひとつは「メタ言語能力が外国語学習を促進する」で、もうひとつは「外国語学習がメタ言語能力の発達を促進する」である。Vygotsky(1986)は外国語学習の成功の度合いは母語への習熟の度合いによって決まり、逆に外国語学習によって母語の高度な能力の習得を促進すると言い、ここから2つの仮説がいずれも正しいと読み取ることができる。
従来高等学校などで行われていた英文和訳や和文英訳がメタ言語能力を高め、母語のの効果的運用につながっていたという指摘もある。大津(2009)は皮肉なことと前置きしながらも、これらの活動を通してことばの構造や機能についての理解を深めることができたことを認めている。また、大学受験指導の立場から伊藤(1996)も、「国語についての自覚を深め、その能力の向上を図るためには、国語以外のコトバの学習が必要である」(伊藤1996:20)と指摘し、その手段として英文和訳が有効であると述べている。大津や伊藤の指摘は、外国語を意識的に学ぶことで母語も客体化しやすくなり、複数の言語体系を比較対照することでメタ言語能力が発達しやすくなること(大津1982, 1989)を裏付けるものであり、2つめの仮説の経験的妥当性を支えるものである。
では、ひとつめの仮説、「メタ言語能力が外国語学習を促進する」というのはどうであろうか。岡田(2005)が指摘するように、子どもが母語を無意識に習得するという事実が、大人が意識的に外国語を習得することができないことを必ずしも意味するわけではない。ここで、第二言語習得(second language acquisition)*1におけるメタ言語能力の位置づけについて見ていく。Krashen(1980)は大人の意識的な外国語習得に対して消極的な評価をしている。Krashenは言語入力について、非明示的で無意識的な「習得」(acquisition)と明示的で意識的な「学習」(learning)を区別している。前者のみが言語運用能力の獲得につながり、後者の役割は言語使用におけるモニターという限定された役割しか果たさないという。習得が言語能力そのものの発達、学習がメタ言語能力の発達につながると解することもできるが、Krashenは意識学習による明示的知識は習得による非明示的知識に転化することはないとするノン・インターフェイスの仮説の立場(non- interface position)*2をとる。ノン・インターフェイスの仮説の立場では無意識的な習得が中心的な役割を果たすと考えられている。この場合、言語入力の質が重要となってくる。Krashenは学習者のその時点のレベルより少し難度の高いもの(i+1)を学習者に与えることが習得を促進するためには必要であると言う。そうすることで、学習者は文脈や言語外情報によってそれを理解するという。
だが、学習者の非明示的な言語能力から教師がi+1を推し量ることは難しい。ここでインターフェイスの仮説が出てくる。White(1987)は、文法能力は意味や文脈によってのみ習得されるものではなく、またi+1となるように調整された言語入力では習得に有害となる可能性を指摘し、言語構造についての指導(grammar teaching, emphasis on particular structures)や誤りの訂正(correction)が言語習得を促進すると述べている。また、Mclaughlin(1978, 1990)はKrashenの意識・無意識という基準で習得と学習を区別するのは曖昧であるとして、「制御的処理」(controlled process)と「自動的処理」(automatic process)という区別を設けている。制御的処理とは積極的な注意を要する、短期記憶による過程であるのに対し、自動的処理は注意を要しない、長期記憶による過程である。Mclaughlinは学習によって制御的処理から自動的処理に移行するという立場をとる。自動的処理は確立されるまでにかなりの時間がかかるが、一度確立してしまえば変えにくいものである。同様に、Bialystock(1978)も明示的言語知識が形式重視の練習(formal practice)によって非明示的言語知識へ移行させることができるとしている。MclaughlinやBialystockの立場に立てば、明示的な文法知識も制御的処理の下で繰り返し使用することで内在化し、自動的処理に移行させることができるため、Krashenの仮説の場合よりも文法学習に積極的意義を見いだすことができる。
では、Whiteの言う言語構造の指導や誤りの訂正、Mclaughlinの言う制御的処理はどうあるべきであろうか。同じくインターフェイスの仮説の立場をとるSharwood Smith(1981)は、教師や多くの学習者にとって文法の説明は近道(shortcut)であり、純粋に直観的なやり方では非明示的知識を十分に身に付け、それを使うスキルを身に付けるのにどれほどの時間がかかるかわからないと述べている。学習者は明示的な知識を持つことによって、教室の内外でその知識を意識的に使うことができ、より高度なコミュニケーションが可能となるという。ただし、このことは学習者が自分の持つ知識を文法用語で説明できるようになるべきだということを、必ずしも意味しない。つまりここで重要なのは、文法用語などのメタ言語ではなく、Tunmer and Herriman (1984)の言う、その例示化能力としてのメタ言語能力なのである。
メタ言語能力が明示的言語知識を持つことと密接な関係があるが、学習者自身が必ずしも文法説明ができなくてもよいということは、どういうことなのであろうか。Sharwood Smith(1981)は、学習者自らが言語現象の法則性を発見することが重要であると言い、問題はその発見に対して教師がどの程度関与するかであると言う。そしてその関与の仕方は、時間をかけてもかけなくてもよいし、教室内にとどめる必要もないし、その方法も直接的・明示的であってもなくてもよいという。ここでSharwood Smithが主張するのは「意識の高揚」(consciousness raising)*3と呼ばれる、言語の形式特性に注意を向けさせることの重要性である。
意識の高揚が北米を中心として第二言語習得の分野で提唱されているのに対し、イギリスでは母語としての英語教育の立場から「言語への気づき」(Language Awareness)という提言がなされている。もともとは母語としての英語教育から出発したものの、7歳児に字を読むことに支障をきたした生徒が外国語学習でも困難な状況に陥っているという事実が明らかになると、外国語教育の領域にも問題意識が広がっていった(福田1998)。言語への気づきは意識の高揚と比べ、社会性を帯びた広い概念となっている。また、文法についてもSharwood Smith(1997)が言うように、言語への気づきのほうが意識の高揚で扱われるよりも明示性の高い、文法訳読とのような分析的なものが考えられており、Sharwood SmithやRutherfordの主張しているものとは大きく異なる。それでも、言語への気づきは日本の英語教育のような環境では有効であるという指摘がある。福田(1998)は英語の前置詞という概念を後置詞としての日本語の助詞と対比させて例を挙げれば、理解が得られるはずであると述べている。また、母語と外国語のインターフェイスとして、2つの言語の教師が共通であれば理想的であるとする見解があることも挙げている。

メタ言語能力と国語教育

言葉の熟練した使い手はメタ言語能力が高い。この能力は先天的なものではなく、年齢が上がるにつれて発達させていくものである。母語の能力にともない母語に対する直感が働くようになる。これがメタ言語能力の萌芽であり、この直感を意識化させ、メタ言語能力の発達を促進していくことが効果的な言語運用の礎となる。国語科においてメタ言語能力の育成が重要な目標とひとつとして掲げられるのはそのためである。
松崎(1991)は、従来の国語科の授業ではメタ言語能力の育成という意識が希薄であったと指摘している。岩淵(1944)のように比較的早い時期から言語への気づきを国語科の授業に取りいれようとする発想があったにもかかわらず、それが普及・定着しなかったのはなぜだろうか。この問題について森(2004)は、戦後の学習指導要領を曲解し「言語活動の指導をしていれば、言語事項という基礎も指導したことになる」という発想と、「文法万能論」が背景にあったと指摘している。もちろん、メタ言語能力の発達の促進ということの重要性が認識されていなかったわけではない。ただ、大津(1989)が指摘するように、これまでの実践の多くは比較的低学年の子どもを対象とした、音韻的側面や形態論的側面を扱うものに限られていた。
このように考えると、メタ言語能力の育成は学習文法論と密接な関係があることが分かる。従来の「ことばあそび」のなかで行われていたメタ言語能力の育成は、学習文法論との関連が十分に考慮されていなかったためにメタ言語能力全般を扱うことができなかったのではないだろうか。学習文法論における問題には、岡田(2005)が例に挙げている日英語の文法用語の整理などの問題もあるが、そもそもそうした用語を用いた指導がメタ言語能力の発達や言語運用に有効なのかどうかが明らかではないという問題もある。こうしたことから、学習文法論については、日本語学や理論言語学の知見を単純に援用するのではなく、メタ言語能力と言語運用能力を高めるという観点から検討していくことが必要である。

参考文献

  • Bialystock, E. (1978) "A Theoretical Model of Second Language Learning." Language Learning, 18 pp.69-84.
  • Bialystock, E. (1979) "Explicit and Implicit Judgements of L2 grammaticality." Language Learning, 19 pp.81-103.
  • Bialystock, E. (1988) "Psychological Demensions of Second Language Proficiency." in Rutherford and Sharwood Smith (eds.) (1988).
  • Ellis, R. (1985) Understanding Second Language Acquisition. Oxford: Oxford University Press.
  • Krashen, S. D. (1980) "The Input Hypothesis." Alatis, J. ed. Current Issues in Bilingual Education. Washington, D.C.: Georgetown University Press.
  • Mclaughlin, B. (1978) "The Monitor Model: Some Methodological Consideration," Language Learning, 28(2) pp.309-332.
  • Mclaughlin, B. (1990) "'Conscious' versus 'Unconscious' Learning." TESOL Quarterly, 24(4) pp.617-634.
  • Rutherford, W. and Sharwood Smith, M. (1988) "Consciousness Raising and Universal Grammar," in -Rutherford and Sharwood Smith (eds.) (1988).
  • Rutherford, W. and Sharwood Smith, M. (eds.) (1988) Grammar and Second Language Learning. Boston, MA: Heinle & Heinle.
  • Sharwood Smith, M. (1981) "Consciousness-raising and the Second Language Learner" Applied Linguistics, 2(2) pp.159-69.
  • Sharwood Smith, M. (1997) " 'Consciousness-raising' Meets 'Laguage Awareness'." Fremsprachen Lehren und Lernen, 26 pp.24-32.
  • Tunmer, W. E. and Bowey, J. A. (1984) "Metalinguistic Awareness and Reading Acquisition." in Tunmer, et.al. (1984).
  • Vygotsky, L. (1986) Thought and Language. translation newly revised and edited by Alex Kozlin. Cambridge, MA: MIT Press.
  • White, L. (1987) "Against Comprehensible Input: the Input Hypothesis and the Development of Second-language Competence," Applied Linguistics, 8(2) pp. 95-110.
  • 伊藤和夫(1996)「大学入試と日本語−言語の暗部」『現代英語教育』33(7) pp.18-20
  • 大津由紀雄(2009)「国語教育と英語教育」森山卓郎(編著)『国語からはじめる外国語活動』慶應義塾大学出版会
  • 岡田伸夫(2004)「UG-based SLA研究と英語教育」『英語教育』53(6) pp.12-15.
  • 岡田伸夫(2005)「言語理論と言語教育」大津・坂本・乾・西光・岡田『言語科学と関連領域』(言語の科学11)岩波書店
  • 福田浩子(1998)「Consciousness RaisingとLanguage Awareness−その定義と言語教育における意義」『青山国際コミュニケーション研究』2 pp.5-20
  • 松崎正治(1991)「《メタ言語能力》を育てる教材の開発」『国語科教育』38 pp.27-34
  • 森篤嗣(2004)『学校文法拡張論−インダクティブ・アプローチに基づく文法教育の再構築』大阪外国語大学博士論文.
  • 山室和也(2005)「国語教育における「文法教育」観の転換〜メタ言語能力の一つとしての文法意識の発達と確立〜」『全国大学国語教育学会発表要旨集』112 pp.31-34

*1:ここでいう「第二言語」とは母語(=第一言語)の次に習得する言語を指し、社会言語学的な意味での「第二言語」と「外国語」の両方を含む概念である。また、"acquisition"の訳語としては、第二言語の場合、普遍文法の役割を重視する立場では「獲得」、経験や学習方略などを重視する立場では「習得」と訳されることが多い(岡田2004)。

*2:ノン・インターフェイスの仮説、インターフェイスの仮説という分類はEllis(1985)に見られる。訳語は福田(1998)に倣った。

*3:consciousness raisingについて、Rutherford and Sharwood Smith(1988)は、"the deliberate attempt to draw the learner's attention specifically to the formal properties of the target language"と定義している。