持田哲郎(言語教師@文法能力開発)のブログ

大学受験指導を含む文法教育・言語技術教育について書き綴っています。

「国語科教育特論」発表ハンドアウト

本稿は、私が科目等履修生として聴講している早稲田大学大学院教育学研究科国語教育専攻「国語科教育特論II」(担当:町田守弘教授)において、2010年1月14日に発表した際のハンドアウトです。

はじめに

日頃英語教育に携わっていて、「英語以前に日本語ができない」という教師の嘆きを耳にすることがある。訳読式の授業が批判の対象となる背景には、もちろん言語学習の仕組みを知らない素人が「使える英語」を渇望しているということもあるが、訳読に耐えうる日本語の知識や能力を身につけていない学習者の存在も看過できない。
また、公務員試験対策講座で講師をしているときには、「文章理解」という科目で現代文・古文・英文の3分野を通しで講義をすることも経験した。そのとき、日本語も英語も単語を適当に読みつなぎ、雰囲気での理解を試みる学生が意外に多いことに気付いた。日本語が読めなければ英語が読めるはずがないと感じた。こうした経験は、言語能力の基盤を成すものは何であるかという問いを私に突きつけ、母語の獲得や国語科教育を不問にして外国語学習に携わることがいかに不毛であるかという危機感を植え付けた。
そこで今回は、まず母語の能力と外国語能力との関係について概観する。そのなかで大きな役割を果たす「メタ言語能力」を育成する方法について考察する。そのうえで実際にどのような授業が可能なのか考えていくことにする。

外国語能力の基盤となる母語の能力

「英語以前に日本語ができない」という嘆きは感覚的なものであり、日本語、すなわち学習者の母語がどのような状態であれば英語、すなわち外国語の学習に有効に作用するようになるのかを理解したうえでの発言ではない。しかし母語の知識や能力が外国語学習に影響するという事実は、これまでの研究によって明らかになっている。村杉(2002)は第二言語習得研究の見地から、第二言語の読解力はある程度までは目標言語(=学習外国語)の文法知識への習熟などを前提とするものの、その後は母語の読解方略が転移すると指摘している。
村杉は第一言語獲得にも言及しており、読解力が文法知識を前提としていることを示唆する研究を取り上げている。母語の文法は一般的には5歳頃までにある程度獲得されると言われている。この内在化された母語の言語知識を意識化させることができれば、意識的学習を基盤とする外国語学習において有効である(大津2006)。このように母語の言語知識を意識化する能力を、大津は「メタ言語能力」と呼んでいる。
母語の知識を意識化することで外国語学習に有効に作用する理由は、「言語転移」と呼ばれる現象を、学習者がいわば味方にできるからである。田中・阿部(1989)によれば、外国語学習において学習者は新たな言語データを処理するために、つねに既存の認知構造やデータと結びつけようとする傾向があるという。このため日本語を母語とする英語学習者は、英語の知識を日本語の知識に対応させようとする。このような言語間の写像(interlingual mapping)を考慮した場合、日本語の知識をある程度意識化しておかなければ誤った写像が行われ、言語転移が干渉というかたちで英語学習の足を引っ張ることになる。これに対し、日本語の知識を意識化できていれば干渉という負の影響を最小限にでき、むしろ学習方略として日本語の知識を積極的に活用できるようになる。
また、文法能力が読解力の前提となるならば、日本語の文法知識を意識化させることによって、読解力のさらなる伸長を見込むこともできる。特に高等学校の「国語総合」や「現代文」レベルの読解は直観的理解では立ちゆかなくなる生徒も多く、文法の意識化がその突破口となる可能性がある。また、現代日本語文法の意識化が古語の理解にも有効に作用するのではないかという見通しも立つ。

メタ言語能力を育成する方法

国文法の問題点

母語である日本語の文法知識を意識化させるにはどのような指導を行ったらよいのだろうか。少なくとも活用表の機械的な暗記ではないことは確かである。ただその反動で現代語も含めた文法指導全体が及び腰になってしまった傾向もあるようである(川本2004)。金水(1997)が指摘するように現代語文法が古典文法を導入するために整備されたものであった。また現場での文法指導もこうした考えを受けたものであった(愛原1981)。このため、古典教育の文法偏重を改めようとする動きの中で現代語文法の指導も下火になっていたと言える。
現代語文法を教えるのは古典文法を教える準備のためだとする考え方は、国語科教育における文法指導の意義を懐疑的に考えられていることが多いからであろう。安藤(1963)はこの考えを、「無用である」「文法論は不要である」「無力有害である」という3つの立場にわけて論じている。
「無用である」という意見は、文法を学ばなくても日本語を実用的に使うぶんには不自由しないというものである。この意見の中で、現実の話し言葉が文法に従っていないという指摘がなされることもある。「文法論は不要である」という意見は、学者の提唱する文法論は抽象的で、言語生活にはなじまず、文法論を意識することでむしろ言語生活の妨げになるというものである。「無力有害である」という意見は既存の文章などから記述した文法を学んでも、伸びやかな表現力を奪ってしまうだけであるというものである。
こうした不要論に共通するのは、文法というものが言語に必須の要素であるという認識の欠如である。谷崎(1975:61)で「日本語には西洋語にあるような難しい文法というものはありません」と言われているような考え方が、国語教育の世界には根強いのかもしれない。文法学習が理解と表現に役立つことによってその目的が達せられるのだという時枝(1950)のような考え方は一般には定着していないのが実情と思われる。だが、岩淵(1973)の指摘を待つまでもなく、谷崎の意図は日本語と西洋語とでは体系を異にするということである。見方を変えれば、国語教育の「文法」とは西洋語文法の引き写しであり、それゆえ日本語の運用とは無縁であるという意見が国語教育の現場にはあるのかもしれない。
ここで、学習文法の記述上の問題点が浮き彫りとなってくる。それは、従来の国文法では現代語の運用に資するものにするという意識に乏しいため、現代日本語の言語事実を正しく反映したものになっていない可能性があることである。これは古典文法や、英文法をはじめとする西洋語文法に振り回された結果であるかのように言われることがある。だが従来の古典文法が古文理解に必ずしも役立っているとは言えない(中村2006)。また、愛原(1981)は国文法と英文法の用語の扱いなどの違いに困惑している生徒が多いことを指摘している。

国語科教育のための「学習文法」の必要性

現代日本語の言語事実を正しく記述すれば、それが学習文法として機能するかと言えば、そうではない。言語記述、すなわち記述文法の目的は言語事実を明らかにすることそのものであるが、学習文法の目的はそうではない。国語の学習文法はメタ言語能力を高めるとともに、効果的に話し聞き、読み書くことに役立つものでなければならない。さらに学習者にとっては学びやすいものでなければならない。阿部(1994)にはDirvenによる文法の分類が挙げられている。これによると、文法(grammar)はまず学習文法(pedagogical grammar)と記述文法(descriptive grammar)に分類されている。これは外国語教育における分類であるが、メタ言語能力養成を考慮した国語教育においても同様に考えるべきであり、純粋な記述文法と学習文法を混同してはならないという教師・研究者に対する戒めと考えてよいだろう。
ここでの考え方は、「中学校の文法に、いま、いちばんのぞまれるのは、そうした、現代日本語の語法の特性や問題点に即して、親しみやすいかたちで文法事象をときあかしていく姿勢ではないだろうか。もちろん、その場合、網羅的・体系的である必要はない。」という田中(1981:90)の考えに近い。しかし、生徒に向けた文法知識の提示が体系的・明示的であるかどうかにかかわらず、教師が持つべき学習文法の知識は網羅的・体系的で、当然明示的なものでなければならない。
このため文法の意識化のための指導においては、現代日本語文法を学習文法(pedagogical grammar)としてどう記述すべきかということ、そして記述した文法体系をどのようなかたちで生徒に提示していくのかという、2つの問題を解決していく必要がある。
本来ならば、Sharwood Smith(1981)が言うように学習文法の記述はあらゆる用途に包括的な記述を行い、それをベースに個別の目的に合わせた記述を行うべきであろう。しかし、今回は授業や教材という「出口」の側からこの問題について考えていこうと思う。

メタ言語能力を育む文法教育

すでに述べたように、母語の場合、文法知識のほとんどが5歳前後には獲得されている。こうした状況を考えれば、長大な文章を一字一句、意識的に分析していくような文法知識の運用は考えにくい。まとまった長さの文章よりも、文単位の台詞やキャッチフレーズのようなものの方が文法のような言語知識を意識化させるには向いていると言える。たとえば、「特急電車のお越しを待ちます。」や「携帯電話は電源を切ってご利用ください。」といった電車の車内放送に我々が違和感を抱くのも、前後のコンテクストが云々ということよりも、文単位で取り出したときの違和感を問題にしているのである。
文法教育の方法としては、さまざまなものが考えられる。すぐに思いつくのが文法項目ごとに体系的に教師が解説し、生徒が練習問題によってそれに習熟していくものである。高校生や大学生が相手であればそれでもよいであろう。だが、大津(2009)はメタ言語能力育成の初歩となる「ことばへの気づき」は小学校期以前または小学校期に行うことが望ましいとしている。外国語学習の基盤としてメタ言語能力を活用するには、ことばへの気づきは外国語学習に先立って始められなければならないからである。村上(2008)も文法教育を国語科教育の中心に据えるべきという立場ではあるものの、実際の授業のあり方は子どもたちの知識の状況や年齢によると述べている。

メタ言語能力を育む授業のあり方を探る

学習者の「いま、ここ」という視点

メタ言語能力の育成は、学習者が無意識に獲得した母語の知識を意識化することによって実現する。意識化する前の母語は日常言語であり、これを意識化することで国語科教育が扱う目標言語「国語」となると言ってよい。国語科教育で身につけるべき言語は「タメ語」ではないのである。このため、町田(2009)が言うように、まずは学習者である子どもたちが生活する場所に学びを立ち上げることが重要になる。学習者の「いま、ここ」にある言語から、ことばの気づきのきっかけを作っていくことが大切であると言える。

単元化の問題

メタ言語能力を育むことは、「日本語の言語現象に対する意識、分析力を高める」といった単元目標に結びつけることができる。だが、実際的な問題として、これを独立した単元として設定すべきかどうかということを考えていく必要がある。単元化するならば、一定の授業時間数をメタ言語能力育成のために、あるいはそのためだけに費やすことになる。逆に、例えば、「語順や文構造を工夫し、読み手が理解し納得できるような効果的な表現ができるようにする」といった単元目標を設定するならば、メタ言語能力育成はその構成要素の一つとなり、独立した単元ではなくなる。
文法能力がコミュニケーション能力の構成要素であるという、Canale and Swain(1980)やCanale(1983)の立場に立てば、国語科教育の「話すこと、聞くこと」、「書くこと」および「読むこと」の各領域を文法能力が下支えするということになる。そうであるならば、メタ言語能力の育成は単元として独立させるか否かにかかわらず、あらゆる言語活動において念頭に置き、盛り込んでいかねばならないのではないだろうか。

言語活動の素案?:「書くこと」におけるピア学習

作文教育・文章表現教育の領域では、ピア学習という学習者が相互に支援し合う方法が広まりつつある。「文章を書くという段になると、日本語をハッキリ客体として意識しなければいけない」(清水1959:81)と言われるように、「書くこと」の領域はふだん意識しない母語の仕組みに気付かせる格好の機会を提供してくれると言える。実際、大久保(1964)や武部・秋末(1979)など、以前から作文において文法的な誤りが目立つことが指摘されている。しかもこうした誤りは高校生や大学生になっても見られるという指摘もある(森岡1967)。こういった誤りを学習者同士で発見し、修正を試みる過程で、メタ言語能力の向上を図ることができるであろう。

言語活動の素案?:「いま、ここ」の学習材から

「文章を書くこと」に先立って、もっと日常的な生活の場にある言語現象に触れることでメタ言語能力の育成に役立てる方法も考えておきたい。たとえば、マンガ・アニメの活用である。マンガの登場人物には特徴的な言葉づかいをするものが少なくない。古くは『天才バカボン』のバカボンのパパがよく口にする「これでいいのだ」がある。これは「これでいい」という言い方と何がどう違うのかと学習者に考えさせることで、文末表現の効果を学ぶことができる。『ドラえもん』のスネ夫の言う「のび太のくせに生意気だ」は文法と論理を考えさせる格好の素材である。『ちびまる子ちゃん』の丸尾君は「ずばり〜でしょう」という確信を持って無責任な発言をするのが特徴である。このキャラクターのおもしろさが分かれば、英語の助動詞willの習熟もぐっと容易になってくる。
もうひとつおもしろいと思われるのが、「誤変換コンテスト」である。性能の低いカナ漢字変換プログラムでは文構造を無視した奇妙な変換をすることが多い。これを逆手にとって、誤変換からもともと書こうとしていた表現をたどることで文構造や漢字への意識を高めることができる。高校時代、生徒会室のワープロ専用機で「せいとかいちょう」を変換すると「性と快調」と表示された。最近ではケータイで「さいきょうせん」を変換すると「最強船」と表示されると話題になったことがある。

おわりに

国語科教育の経験に乏しいため、具体的な授業案を構築するに至らなかった。日本語によるメタ言語能力育成自体は英語の授業でもできる。しかし、国語科側でもこれを盛り込んでいけるのかが、よりいっそうの成果を上げるためのカギとなる。議論を通じて何らかの示唆が得られれば幸いである。

参考文献

  • 愛原豊(1981)「文法教育はどうなっているか」『言語』1981年2月号 pp.36-41
  • 阿部一(1994)「英語学と教育文法」『現代英語教育』創刊30周年記念号 pp.44-47
  • 安藤新太郎(1963)「ことばの決まりの教育」『国文学』1968年1月号臨時増刊 pp.179-183
  • 岩淵悦太郎(1973)「文章表現とコミュニケーション」『国文学』1973年9月臨時増刊号 pp.6-7
  • 大久保忠利(1954)「文章と文法−文章を書く時は、特にこんなところに注意してください−」『国文学解釈と鑑賞』1954年9月号 pp.30-34
  • 大津由紀雄(2006)「原理なき英語教育からの脱却を目指して 大学編」『英語教育』2006年4月号 pp.33-35
  • 大津由紀雄(2009)「国語教育と英語教育」森山卓郎(編著)『国語からはじめる外国語活動』慶應義塾大学出版会
  • 川本信幹(2004)「確かな学力を支える日本語運用能力」『日本語学』2004年4月号 pp.76-82
  • 金水敏(1997)「国文法」益岡・仁田・郡司・金水『文法』(岩波講座言語の科学5)岩波書店
  • 清水幾太郎(1959)『論文の書き方』岩波新書
  • 武部良明秋末一郎(1979)「文章表現べからず集」『国文学』1979年6月臨時増刊号 pp.183-204
  • 田中章夫(1981)「文法教育を考える」『文学』1981年9月号 pp.82-93
  • 田中茂範・阿部一(1989)「外国語学習における言語転移の問題3」『英語教育』1989年1月号 pp.78-81
  • 谷崎潤一郎(1975)『文章読本』中公文庫.
  • 時枝誠記(1950)『中等国文法別記口語編』中教出版
  • 中村幸弘(2006)「なお遠い、読解に役立つ文法」『日本語学』2006年4月臨時増刊号 pp.10-14
  • 町田守弘(2009)『国語科の教材・授業開発論:魅力ある言語活動のイノベーション東洋館出版社
  • 村上三寿(2008)「言語教育としての普遍性をもった国語教育であるか−品詞の学習から文の学習へ−」『国文学解釈と鑑賞』2008年1月号 pp.163-177.
  • 村杉恵子(2002)「文法」津田塾大学言語文化研究所読解研究グループ(編)『英文読解のプロセスと指導』大修館書店
  • 森岡健二(1967)「作文における助詞の問題」『国文学』1967年1月臨時増刊号 pp.15-20
  • Canale, M. (1983) "From Communicative Competence to Communicative Language Pedagogy" In J. C. Richards and R. W. Schmidt eds. Language and Communication, London: Longman, pp. 2-27.
  • Canale, M. and M. Swain (1980) "Theoretical Bases of Communicative Approaches to Second Language Teaching and Testing," Applied Linguistics 1(1) pp. 3-47.
  • Sharwood Smith, M. (1981) "Notions And Functions in a Contrastive Pedagogical Grammar" In A. James and P. Westney eds. New Linguistic Impulses in Foreign Language Teaching. pp. 39-53.