日本語文法の体系的知識(その1)
国語教育の本質
国語教育においていったい何を教えるべきかについては、いくつかの立場が考えられる。このなかには村上(2008)や高木(2008)のように、日本語文法の体系的知識を教育内容の中心に据えるべきという立場もある。この立場は、母語の言語技術の習得や外国語学習において、その土台として母語の体系的知識が大きな役割を果たすという考えに基づくものである。高木はまた、読み、書き、話し、聞くなどというものは、学校国語教育のみで完成するものではなく、国語科教育は基礎教育教科として文法教育をまず行うべきと主張する。こうした考え方は、国語教育を文学教育や言語技術教育と捉える考え方とは区別される。この場合、文法指導は明示的で演繹的なものになっていく可能性がある。しかし、公教育における母国語学習と学校外での母語習得は外国語の場合と比べて連続的で不可分なものである。また、外国語の場合と異なり、学習者の年齢も低く抽象的な概念の理解が困難な場合も多い。このため、演繹的と帰納的の折衷的な方法をとらざるを得ず、文法指導を他の教育内容と切り離した独立したものとするところが、上記の考え方の特徴ということになろう。
国語教育における文法不要論
国語教育において、文法教育の意義に対しては懐疑的に考えられることが少なくない。安藤(1963)は、こうした立場を大きく3つに分けている。
- 無用という意見
- 文法論不要という意見
- 無力有害という意見
1.の意見は、文法を学ばなくても日本語を実用的に使うぶんには不自由しないというものである。この意見の中で、現実の話し言葉が文法に従っていないという指摘がなされることもある。2.の意見は、学者の提唱する文法論は抽象的で、言語生活にはなじまず、文法論を意識することでむしろ言語生活の妨げになるというものである。3.は既存の文章などから記述した文法を学んでも、伸びやかな表現力を奪ってしまうだけであるというものである。
こうした不要論に共通するのは、文法というものが言語に必須の要素であるという認識の欠如である。谷崎(1975:61)*1で「日本語には西洋語にあるような難しい文法というものはありません」と言われているような考え方が、国語教育の世界には根強いのかもしれない。だが、岩淵(1973)の指摘を待つまでもなく、谷崎の意図は日本語と西洋語とでは体系を異にするということである。見方を変えれば、国語教育の「文法」とは西洋語文法の引き写しであり、それゆえ日本語の運用とは無縁であるという意見が国語教育の現場にはあるのかもしれない。また、愛原(1981)などが指摘するように、文語文法の基礎として口語文法を教えておこうという立場をとる教師も多い。この立場もやはり、現代日本語の運用には文法学習は不要であるという考えに基づくものである。
以上のことから、国語教育に文法指導が必要かどうかという問題を考えていくにはまず、現代日本語を適切に記述した文法研究に基づく学習文法を構築する必要がある。そのうえで、そうした知識を明示的に指導することで学習者の言語運用にどう影響するのかを検証していく必要があろう。
参考文献
*1:中公文庫版