持田哲郎(言語教師@文法能力開発)のブログ

大学受験指導を含む文法教育・言語技術教育について書き綴っています。

ゼミ発表資料

2010年7月2日にゼミ*1で発表した資料を転載します。

メタ言語能力と文法教育

文法教育の目的:橋本進吉時枝誠記

国語科における文法教育の目的は、古典文法(文語文法)と現代語文法(口語文法)で異なる。古典文法教育の目的は古文解釈のためという一点に集約されるが、現代語文法教育の目的については意見が分かれている。これらを大きく分けると、日本語の理解や表現の能力を高めることに直接結びつけようとするものと、間接的に結びつけようとするものがある。また、両者の中間に位置づけられる立場のものや、言語学習を超えたところに目標を定めているようなものもある。
現代語文法教育を日本語の理解や表現の能力を高めることに直接結びつけようとする立場は、時枝(1950a, 1963, 1967, 1984)に見られる。時枝は「文法教育の目的は、言語表現の法則を教えることであり、言語の実践の方法を教えることである」(時枝1967: 10)と説いている。時枝は文法教育の目的を、言語表現の法則を教えることと、言語の実践の方法を教えることとの2点を掲げている。時枝は文法知識を「言語表現の法則」と捉えていることになるが、これは時枝が文法の概念を語論・文論・文章論と広く捉えているためである(時枝1950b)。その文法知識の習得の方法として、時枝(1963)は一通りの知識を体系的に学習しておくことが効果的であると述べている。言語の実践とは理解と表現である。時枝(1950a)は、文法学習が理解と表現に役立つことによって目的が達成されると主張する。
これに対して、現代語文法教育を日本語の理解や表現の能力を高めることに間接的に結びつけようとする立場がある。この立場は文法意識を高めることに重点を置いており、メタ言語能力の育成につながる考え方であると言える。こうした考えそのものは戦前から見られる。明治以来文語文法中心の文法教育が1931年に口語文法も教えることに方針転換し、その目的を橋本(1946)は次のように述べている。

言語を習得させる爲には、是非文法の知識をそのまゝ授けなければならないのでなく、實際の言語になれさせるだけでもよい。しかし、文法の知識は、實際、言語の中に行はれてゐながら、明かに捉む事が困難なきまりを、自覺させ意識させるものであるが故、その言語を教授するものには是非必要なものであり、學ぶものにも之を授けた方が効果が多いのであつて、これによつて言語を正しく解し、又誤に心附かしめる事が出來る。(橋本1946: 335)※強調は発表者による

橋本は、言語運用の中で無意識的に使用される文法知識を自覚し意識化することが口語文法教育の目的であるとするのであるが、この考え方は口語文法が教えられるようになる前から存在した。山田(1923)の巻頭には、「多くの文例より推して文法上の法則を發見せしめ」と、詰め込み型の学習を避けるための配慮として文法の法則に意識を向けさせる発見型学習が提唱されている。このため、口語文法教育の目的は説得力を欠き、一般には文語文法を指導する前の準備として口語文法教育が捉えられるようになった。橋本の文法の枠組みは現在の学校文法でも根幹をなしているためもあり、こうした捉え方は現在でも支配的である。金水(1997)は文法教育の実情を次のように批判している。

学校文法に基づく古典解釈のメソッドが確立された結果、文法は完全に暗記の学問となってしまった。古典ではまだ学校文法が実効的に働くからいいのであるが、学校文法の現代語文法は実は古典文法を導入するための仮構された悪しき折衷と妥協の産物であり、辞書の品詞分類以外にはほとんど役に立たない。(金水1997:122)

こうした事情があり、時枝は文法現象の観察を文法教育の目的とすることを否定し、「獲得した文法知識によつて、正しく話し、かつ読むことが出来るやうにすることが大切で、文法的知識によつて、国語の実践を、より自覚的に、より確実にすべきである」(時枝1963: 137)と主張している。国語の実践を自覚的にするということは、理解や表現をモニタリング(Nelson and Naren, 1994; 三宮1996)するということであり、そこではメタ言語能力を行使することになる。問題は、そのメタ言語能力の発達を促進するような文法教育をどのように行うかである。橋本も時枝も、この点に対する明確な提案は行っていない。

教科研文法

文法教育は理解や表現の能力を高めるために行い、そのためには小学校の段階から系統的な文法指導を行うべきだという立場に立つのが、教科研(1963)である。教科研は子どもの発達段階に応じて系統的に文法知識を与えていくことが有効であると提唱する。また、こうした文法教育は読解や作文の教育の中で行うのでは十分な成果をあげることができないので、とりたてて独自の系統を立てる必要があると主張する。その理由として、ここの文法的事実が互いに関連していて、ばらばらに扱っては学習者がそれを正しく捉えることができない点を挙げている。同時に文法教育をとりたてて行うことは機械的な切り離しではなく、読解教育や作文教育との関連づけていくことの必要性も指摘している。これらは戦前からの文法教育が文語文法の導入としての意義しか持たず、現代語の知識としては有効に機能しなかったことへの反省から生まれたものである(鈴木1963)*2
教科研文法の記述は、従来の、そして現在でも一般的な学校文法と比べて現代日本語の言語事実を的確に反映した部分が多いといえる。それにもかかわらず、この文法が広く普及することはなかった。その理由として、森(2004)も指摘するように、橋本の文法記述を基本とする学校文法に慣れ親しんでいた学校現場に受け入れられなかったということもあろう。それとは別に考えなければならないことは、演繹的、体系的、明示的な文法教育でなければ文法力を身につけさせることができないのかという問題である。国語科で学習対象となる言語は第一言語、すなわち母語としての日本語であるから、教室で言語習得そのものを支援しなくても支障はないと考えがちである。このことが文法教育の刷新を妨げている可能性は否定できない。

文法意識を育む文法教育

文法教育の目的の一つに学習者の言語意識または文法意識を高めることを掲げる立場がある(遠藤1958; 増淵1981; 愛原1981; 永野1986; 糸井1995)。言語意識や文法意識と呼び方はさまざまであるが、メタ言語能力と重なる概念である。この立場では、学習者が母語である日本語を無意識のうちに習得し、無自覚に使用しているということを前提としている。まずは母語の文法知識として内在化されているものを意識化して、その意識化して得られた知識を理解や表現のために生かしていくという手順を経るのがこの立場では一般的である。
この立場に立つ場合の問題点は、まず、その実用的価値を学習者に納得させることができるかである。現に日本語である程度の言語生活が可能となっている学習者に対して上に示したような手順で学習させるためには、動機付けが必要である。時枝(1955)のようにコミュニケーションの成立に悲観的な立場に立ち、伝わらない、わからないという経験を学習者にさせることで学習意欲を高めていく必要がある。また、メタ言語能力を高める文法教育では、学習者の気づきを重視するべきであり、帰納的なアプローチを取る必要がある*3

「体系文法」と「機能文法」

戦後の国語科教育における文法教育をめぐって議論されてきたことのひとつに、「体系文法」か「機能文法」かという議論がある。「体系文法」とは文法の体系的指導であり、文法を記述の順序に沿って明示的に指導していくものである。これに対して「機能文法」では表現や理解の実践のなかで文法指導を行うものであり、文法そのものを独立させて指導することはしないという考え方である。機能文法を支持する立場の中には渡辺(1957)*4のように、モニタリングやコントロールというメタ認知的活動におけるメタ言語能力の行使につながる文法学習観を示すものもある。
機能文法に対する批判としては、文法指導が場当たり的になって文法知識が定着しないというものがある。だが、頻度の高い文法事項は、学習者が実際の理解・表現行為の中で頻繁に直面せねばならず、効果的な理解・表現のためにその都度意識するようにしていけば、体系的ではないからといって必ずしも知識が定着しないことにはならない。また、機能文法においては文法の体系性が失われると考えられがちだが、これは教育文法を学習者文法と教師文法という二つの面から捉えようとしないことによる誤解である。教師が持つべき文法知識はあくまでも体系的なものでなければならない*5。ただしその文法知識は実際の言語使用を反映したものでなければならない。体系文法では実際の言語使用の中で用いられていなくても、あるいは実際の言語使用と矛盾するところがあっても、授業としては成立してしまうが、機能的指導ではそうはいかないのである。そのように記述された文法が存在するのかと言えば、金岡(1969)が指摘するように、こうした文法は考え出されていない。このことは金岡の指摘から40年以上経過した現在に至っても進展が見られない。

現代語文法と古典文法の関連づけ

ここまでは主に現代語文法の教育・学習についてみてきた。古典文法教育の目的は古典解釈のためと明確であるが、現代語文法教育とどのようなかたちで接続を行っていくべきであろうか。従来は現代語文法教育を古典文法教育の準備段階と位置づけていたが、田中(1981)が指摘するように、学習者が初めて母語の文法を学ぶときにその文法が古典文法への橋渡しを前提にするのは健全とは言えない。また、現代語文法の知識を古典文法学習の前提とする必要もない(山口(編)1988)。さらに、中等教育の前半のみが義務教育となっている現状では、中学校で行う現代語文法教育を高等学校で行う古典文法教育の前提とするのは制度上からみても問題である(永野1986)。
そこで、高等学校初級*6に、現代語と古語を対比させながら古典文法を学んでいくような方法を提案したい。町田(2001)が提案する「古語と現代語の意味や響きの差異などを通して、より広い視野から言語感覚をとらえる」(町田2001; 33)という指導を、古典文法教育から捉え直していくのである。こうすることで学習者の気づきを大切にした文法教育が古典文法教育においても可能となり、古語と現代語とを対比させることにより、現代語への意識を高めることにもつながるはずである。メタ言語能力の発達を促進させるというと、現代日本語へのアプローチを小学校において外国語活動に先立って行うという考え*7もあるが、増淵(1981)や岡田(2005)が指摘するように、メタ言語能力には個人差がある*8。このため、小学校から高等学校に至るまでのなかで、メタ言語能力の発達を促進させる機会をより多く設けるべきである。ただし、このあたりの理論的妥当性についてはさらに追求していく必要があるように思われる。

反省と今後の課題

今回は文献読み込みが量・質ともに不十分であった。前回の発表の際に指摘された、メタ言語能力の発達の促進と従来の文法教育がどう違うのかを今回の発表で明らかにしておこうと思ったのだが、十分に検討して納得のいくところまで議論を進めていくことができず、中途半端な形になってしまっている。ただ、今回の発表に向けて考察を加えていくなかで、高等学校「国語総合」のあたりでの授業構想につながっていきそうだという見通しを立てることができた。今回手が付けられなかった部分は、合同発表会までにまとめてM1前期の時点での自分の論点を明確にしていきたいと考えている。

参考文献

  • Nelson, T. O. and Narens, L. (1994) "Why investigate metacognition?" In Metcalfe, J. and Shimamura, A. P. (eds.) Metacognition. MIT Press.
  • 愛原豊(1981)「文法教育はどうなっているか」『言語』10(2) pp.36-41
  • 糸井通浩(1995)「ことばの仕組み・筋道をとらえ直す−文法教育論を中心に」糸井通浩・植山俊宏(編)『国語教育を学ぶ人のために』京都:世界思想社
  • 遠藤嘉基(1958)「文法教育の意義」『続日本文法講座4指導編』明治書院
  • 岡田伸夫(2005)「言語理論と言語教育」大津・坂本・乾・西光・岡田『言語科学と関連領域』(言語の科学11)岩波書店
  • 生越秀子(2007)「メタ言語能力を育てる小学校国語教育についての一考察」−「伝えあう力」育成を視座に−」『全国大学国語教育学会発表要旨集』112 pp.12-16
  • 金岡孝(1969)「教科文法の役割と限界」『文法』1(8) pp.108-115
  • 教科研東京国語部会・言語教育研究サークル(1963)『文法教育:その内容と方法』東京:麦書房
  • 金水敏(1997)「国文法」益岡・仁田・郡司・金水『文法』(岩波講座言語の科学5)岩波書店
  • 三宮真智子(1996)「思考におけるメタ認知と注意」市川伸一(編)『認知心理学4思考』東京大学出版会
  • 鈴木重幸(1963)「文法教育をすすめるために」奥田靖雄・国分一太郎(編)『読み方教育の理論』国土社
  • 鈴木重幸(1972)『日本語文法・形態論』麦書房
  • 時枝誠記(1950a)『中学国文法別記口語編』中教出版.
  • 時枝誠記(1950b)『日本文法口語篇』岩波書店
  • 時枝誠記(1955)『國語學原論続篇』岩波書店
  • 時枝誠記(1957)「文法学説と文法教育」『日本文法講座2文法論と文法教育』明治書院
  • 時枝誠記(1963)『改稿国語教育の方法』有精堂出版
  • 時枝誠記(1967)「文法教育上の諸問題」時枝誠記(監修)松村明森岡健二宮地裕・鈴木一彦(編)『文法指導の方法』(講座日本語の文法4)明治書院
  • 時枝誠記(1984)「文法教授に対する卑見」『時枝誠記国語教育論集?』明治図書
  • 永野賢(1958)『学校文法概説』(改訂版1986)共文社
  • 橋本進吉(1946)『国語学概論』岩波書店
  • 増淵恒吉(1981)『増淵恒吉国語教育論集下巻:文法指導論・表現指導論』有精堂出版
  • 町田守弘(2001)「国語科教育における言語感覚−言語感覚育成のための学習指導」『日本語学』20(8) pp.26-33.
  • 森篤嗣(2004)『学校文法拡張論−インダクティブ・アプローチに基づく文法教育の再構築』大阪外国語大学博士論文.
  • 山口明穂(編)(1988)『国文法講座・別巻』明治書院
  • 山田孝雄(1923)『中等教育日本文法教科書上巻』訂正再版 東京宝文館
  • 渡辺修(1957)「機能文法と体系文法」『日本文法講座2文法論と文法教育』明治書院

*1:早稲田大学大学院教育学研究科国語教育専攻「国語科教育演習(1)(町田)」

*2:この目的のために記述された文法が鈴木(1972)などに見られる。

*3:この立場からの提案が森(2004)に見られる。

*4:「新しい文法学習は、言語実践(表現と理解)のために、手段選択の基準として習得しようとする。文法によって、その手段のもたらす結果を予見し、実践をより効果あらしめるように改造するために学習するのである。」(渡辺1957: 301)

*5:これについては、「応用を重んずる実用文法では、教師の体系的知識が、よほどしっかりしていないと、実用問題を処理しきれないこともある」(永野1986: 36)という指摘があり、機能的文法指導の方が教師に要求される知識水準が高いものになるといえる。

*6:現状では「国語総合」を想定している。

*7:生越(2007)などに見られる。

*8:増淵は「メタ言語能力」という用語は使っていないものの、「小学校・中学校・高等学校を通じて、文法教育のねらいの一つは、生徒の言語意識を洗練し言語について敏感ならしめる点にある。言語に対する勘を鋭くさせるのである。総じて、先天的勘の鋭い子供とそうでない子供とがいる。しかし、勘は演練によっても鋭くなるものである。」(増淵1981: 6)という記述が見られる。