持田哲郎(言語教師@文法能力開発)のブログ

大学受験指導を含む文法教育・言語技術教育について書き綴っています。

ゼミ発表資料

2010年12月17日にゼミで発表した資料を転載します*1。やや荒削りの部分がありますが、そのあたり今後練り直していきたいと考えてます。

教育文法の概念

コミュニケーション能力と文法能力

教育文法の概念を明らかにしていくまえに、コミュニケーション能力全体の中における文法能力の位置を確認しておきたい。コミュニケーション能力は国語科の学習指導要領における「伝え合う力」とほぼ重なり合う概念である(森2009)。Chomsky(1965)は理想化された言語使用者の言語知識を「言語能力」(linguistic competence)と定義している。これについてHymes(1972)はChomskyのいう言語能力とは文法能力であり、コミュニケーション能力の一部に過ぎないと指摘している。Hymesは、言語使用者及び言語使用の理論を構築するうえで次の4点を考慮する必要があると主張している。

  1. Whether (and to what degree) something is formally possible;
  2. Whether (and to what degree) something is feasible in virtue of the means of implementation available;
  3. Whether (and to what degree) something is appropriate (adequate, happy, successful) in relation to a context in which it is used and evaluated;
  4. Whether (and to what degree) something is in fact done, actually performed, and what its doing entails.

(Hymes, 1972: 19)

ここでHymesが"something"という語を用いているのは、この基準を言語以外のコミュニケーションにも適用しようと考えているためである。上の4点の中で、HymesはChomskyの言語能力を1に対応づけている。Hymesの流れをくむCanale and Swain(1980)、Canale(1983)は、コミュニケーション能力は以下の4つの構成要素からなるとしている。

  1. 文法能力(grammatical competence)
  2. 社会言語能力(sociolinguistic competence)
  3. 談話能力(discourse competence)
  4. 方略能力(strategic competence)

文法能力は、語彙・統語・文レベルの意味・音韻に関する知識のことで、Chomsky(1965)の言語能力の概念を継承とも言えるが、特定の言語理論と結びつけられるものではないとしている。Canale(1983)では言語コード(code)と非言語コードに関する知識とその知識を使う技能と定義をやや広いものとしている。
社会言語能力は、Hymes(1972)のコミュニケーション能力の概念である。話し手と聞き手の関係、交渉の目的・慣行などから成り立つ個々の社会言語的文脈(sociolinguistic context)のなかで、意味上及び形式上適切な文を発話・理解するための知識とその運用の技能である。Canale and Swain(1980)では談話に関する知識もここに含まれていたが、Canale(1983)では「談話能力」として独立している。
談話能力は、統一性のあるテクストを構成するための知識とその運用技能である。支離滅裂でないコミュニケーションを行うために、談話に統括性(coherence)と結束性(cohesion)を持たせる能力を意味する。
方略能力は、他の3つの構成要素が不十分であるなどの原因で言語・非言語のコミュニケーションが破綻したときにそれを埋め合わせる技能である。また、コミュニケーションをより効果的に行う能力もここに含まれる。このように、コミュニケーション能力という広い視点で見ても、文法能力はそれを構成する要素であることは明らかであり、コミュニケーション能力の習得には文法能力の習得が含まれると考えるべきである(Larsen-Freeman, 1991)。
Canale(1983)ではこうしたコミュニケーション能力を概念化するうえで、コミュニケーションを次のように捉えている。

it (=communication)
(a) is a form of social interaction, and is therefore normally acquired and used in social interaction;
(b) involves a high degree of unpredictability and creativity in form and message;
(c) takes place in discourse and sociocultural contexts which provide constraints on appropriate language use and also clues as to correct interpretations of utterances;
(d) is carried out under limiting psychological and other conditions such as memory constraints, fatigue and distractions;
(e) always has a purpose (for example, to establish social relations, to persuade, or to promise);
(f) involves authentic, as opposed to textbook-contrived language; and
(g) is judged as successful or not on the basis of actual outcomes. (For example, communication could be judged successful in the case of a non-native English speaker who was trying to find the train station in Toronto, uttered 'How to go train' to a passer-by, and was given directions to the train station.)
(Canale, 1983: 3-4)

Canaleは、まず(a)でコミュニケーションが社会的相互作用であるため、社会的相互作用の中で獲得され、使用されるものであると述べている。(b)ではコミュニケーションの形式やメッセージは予測できないことが多く、創造的なものであると述べている。(c)では、コミュニケーションが生じる談話や社会言語学的文脈では適切な言語使用や正確な発話解釈が制約を受けると述べている。(d)では、コミュニケーションが記憶の制約、疲労、注意力の散漫など、心理面をはじめさまざまな制約を受けることを指摘している。(e)ではコミュニケーションが何らかの目的を持って行われると述べている。(f)ではコミュニケーションはテキスト通り進むものではないことを指摘している。最後に(g)では、コミュニケーションは実際の結果から成功したのかどうかを判断されると述べている。
さらにCanaleは次のように続けている。

In addition, communication is understood in the present chapter as the exchange and negotiation of information between at least two individuals through the use of verbal and non-verbal symbols, oral and written/visual modes, and production and comprehension process.(ibid.: 4)

ここから、Canaleはコミュニケーションの概念に言語コミュニケーションと非言語コミュニケーションの両方を含めていることが分かる。また、コミュニケーションを音声言語による会話だけでなく、書記言語によるものも含めていることが分かる。先に挙げたコミュニケーションの定義と合わせて考えれば、文法を完全に習得しなければコミュニケーションができないということではない、ということである。つまり現実にコミュニケーションを行う人間というのは、決してChomsky(1965: 3)の言うような「完全に均質化された言語共同体における理想的な言語使用者」(an ideal speaker-listener in a completely homogeneous speech-community)ではないということである。このことは外国語学習においては学習者の文法学習への心理的負担を軽減することにつながる。しかしまた一方で、母語の学習においては無意識に獲得した文法能力だけでは必ずしも十分ではない場合があることも示唆している。

文法の捉え方

コミュニケーションのひとつの形態として言語コミュニケーションがあり、言語コミュニケーションには文法が関わっている。では、その文法を言語教育においてどのように捉えていけばよいのだろうか。山口(編)(1988)は文法について次のように述べている。

文法は言葉の使い方の体系である。文法は言葉の使い方を規制するために考え出されたものではなく、それぞれの言葉を人々がどう捉えたか、その捉え方としてできあがった体系である。(山口(編)1988: 1)

山口の言説を検討する前に、文法知識の明示性について触れておく必要がある。文法知識には、非明示的なものと、明示的なものがある。非明示的な文法知識とは、「規則そのものについて、分析したり体系的に説明したりすることはできないが、規則を活用して言語表現を理解したり使ったりすることはできる」(馬場1992: 18)というときの文法知識である。母語として獲得する言語の文法知識は主として非明示的なものである。これに対して、山口の言う「文法」とは明示的な知識の体系である。このとき、どのように文法知識を体系化するのかというところに人々の捉え方が反映されるのである。
ここで、明示的な文法知識は何をどのように体系化していくのかが問題となる。「何を」というのは言語知識や言語現象と呼ばれるものである。「どのように」というのは文法知識の体系化の目的によって変わってくる。いわゆる「科学文法」(scientific grammar)と「教育文法」(pedagogical grammar)の違いはこの目的の違いによるものである。八木(1984)は、中学校での国語科教育の立場から、教科文法は表現や理解の正誤の基準となる規範文法であるべきであり、純粋に学問的な科学文法である必要はないと述べている。八木は教科文法の科学性を否定しているわけではなく、教科文法の背景には科学文法の裏づけが必要だが文法学説を教えることが文法指導の目的ではないということを強調している。またSaporta(1966)は、科学文法では文を分析し、分析した要素に対して構造的説明と意味解釈を与えるのに対し、教育文法では母語話者が文を理解・産出する能力を発達させようとするものであると述べている。さらに、Sharwood Smith (1981)は、科学文法はその科学性を保つためにさまざまな原理に沿ったものでなければならないが、教育文法は教師や学習者の必要性に応えるものであればそれでよいと述べている。島田(1983)も、「役に立つ文法」を、解釈文法(読解文法)・表現文法・指導文法の三者を総合したものととらえ、これらについて「理論文法と異なる設定意図を持ち、本来教材研究に資する実用文法であるとの認識に立てば、その総体系の設定にも、理論文法の常識には拘束されぬ独自の体系が容認されるはずである」と述べている。
これらをまとめると、科学文法は一定の理論的枠組みのなかで言語事実を明らかにしていくことが求められるのに対して、教育文法は学習者の言語能力を高めるために利用できることが求められていると言える。なお、八木のいう教科文法では規範性が強調されているが、この点についてはDirven(1990)が教育文法は記述的である必要はないと述べているように、教育文法はその目的によって規範的にも記述的にもなりうるといえる。本研究では教師が学習者に言語規範を押しつける立場をとらないため、教育文法においても規範性は必ずしも重要ではない。
教育文法の概念についてさらに掘り下げていく。Dirven(1990)の分類は本来外国語教育のためのものであるが、言語習得の問題に直接関わるものではないので母語の教育にも役立つと言える。そこでは教育文法が「学習者の文法」(Learning grammar)、「教師の文法」(Teaching grammar)、「参照用文法」(Reference grammar)の3つに分けられている。文法書や参考書と呼ばれるものはこの参照用文法に分類されるものである。学習者の文法や教師の文法を含めた広義の「学習文法」については次の馬場(1992)の分類が参考になる。

  1. 学習者の文法(LEARNER'S GRAMMAR)
    1. 文法学習([the act of] learning grammar)
    2. 文法知識(knowledge of grammar)
    3. 文法知識の活用(access to knowledge of grammar)
  2. 教師の文法(TEACHER'S GRAMMAR)
    1. 文法の明示的知識(explicit knowledge of grammar)
    2. 文法指導([the act of] teaching grammar)

(馬場1992: 23)

この分類も外国語教育のためのものであるので、国語教育に即して捉え直していく必要がある。特に、外国語と国語において大きく異なるのが1.2.の「文法知識」である。これは外国語の場合は学習者の習得過程における「中間言語」(interlanguage)の文法知識であるが、国語の場合は無意識に身につけた母語の文法知識が基盤となっている。このため、1.1.の文法学習も、外国語の場合は文法知識を内在化させていくことに主眼が置かれるのに対して、国語の場合はすでにある程度内在化している文法知識を意識化させていくことが中心となる。1.3.の文法知識の活用は、国語の場合、通常は無意識的であるが、メタ認知によるモニタリングとコントロールを受ける場合は意識的となる。そしてその場合の文法知識がメタ言語能力である。
では、2.1.の教師が持つべき文法の明示的知識とはどのようなものであろうか。まずは言語知識の扱い方であるが、これについて時枝(1963)は次のように述べている。

文法は、国語の実践を自覚的にし、確実にするために、その基礎として教授されなければならないのである。そのやうな文法は、何よりも国語の真の姿を反映してゐるものであることが必要条件であつて、文法学説が何であつてもかまはないといふものではないのである。(時枝1963: 139)

教師が持つべき文法の明示的知識としては、「国語の真の姿」すなわち日本語を正しく記述した文法が必要である。Dirven(1990)が必ずしも記述的である必要はないと述べたのは、教師が持つべき明示的文法知識としてではなく、実際の文法指導において利用する文法知識を指していると考えるべきである。Sharwood Smith(1981)は教育文法の記述にはconcentratedとextendedの2つがあり、concentratedは教師や上級学習者向けの参照用の文法であるのに対してextendedは、特定の学習者、特定の学習活動に向けた文法である。concentratedは汎用性の高い文法知識の体系で、教師の文法もここに位置づけられる。このconcentratedを習得しやすいように単元ごとに工夫したものがextendedであると考えることができる。
時枝(1963)の主張は「国語の真の姿を反映してゐる文法学説」が必要であるというが、日本語を正しく記述できれば必ずしも単一の学説や理論に依拠する必要はない。たしかに、国語科教育であれ、外国語科教育であれ、文法教育で用いる文法体系は言語事実を反映したものでなければならない。しかし、Sharwood Smith(1981)や馬場(1992)が述べているように、複数の理論的基盤に基づく記述や説明を含んでいたも何ら問題はない。この点は母語の教育文法でも外国語の教育文法でも変わらない。
永野(1986: 33)は、「文法論というものがまずあって、それを体系的知識として教えていくというのでなく、国語教育の必要から、教育的文法論としての学校文法が生み出されなければならない」と述べている。すなわち、国語教育の目的や方法に沿った教育文法を構築すべきなのであり、時枝(1957: 10)の言うような、「文法教育の目的方法が、根本的には、文法学説そのものによって種々に規定されてくる」などということはあってはならないのである。
教育文法は、形態統語論・意味論・語用論の3つの領域で構成される(Larsen- Freeman, 1991)。これは時枝(1941, 1950)の枠組みでは、形態統語論が語論・文論、意味論はそのまま意味論、語用論は文章論がそれぞれ対応するといえる。しかし、時枝の意味論は語彙意味論の域を出ず、文法的な意味論への言及はない。逆に語用論においては、時枝は文章論にとどまらず、「場面による制約」という考え方により、欧米の言語理論に先駆けて語用論領域に踏み込んだ論考が見られる。国語科教育においては鈴木(1997)が形態論の欠如、森山(1997)が意味論の欠如を指摘している。
言語事実を正しく反映させるだけでは教育文法としては十分とは言えない(Rutherford, 1980)。ひとことで言えば、「学習の本質(the nature of learning)」(Saporta, 1966: 81)を考慮する必要がある。伊藤・村田(1982)は外国語教育の立場から、学習者の知的発達や学習段階によって教育文法の記述の仕方が違ってくると述べている。この点は、国語科教育の立場からも永野(1986)が指摘している。ここで、母語の教育文法の場合は、どこまでが学習者が無意識に習得する知識で、どこからが意識しないと習得が困難な知識なのか、また書記言語に特有の文法知識とはどのようなものなのかを明らかにしておく必要があろう。
また、Sharwood Smith(1981)は教育文法は「消費者」(the consumers)のニーズに応えた文法でなければならないとしており、「消費者」には学習者だけでなく、教師や教材作成者をも含めている。国語科教育では過去に橋本文法と時枝文法が混在したことによる混乱が見られたことがあり、文法体系の不統一や難解さが国語教師によって文法教育の障害となってきた経緯がある(増淵1981; 八木1984など)。こうした点を考慮すれば教師が持つべき明示的文法知識は学習者にとって学びやすいだけでなく、教師とっても扱いやすいものでなければならない。

参考文献

英文文献
  • Canale, M. (1983) "From Communicative Competence to Communicative Language Pedagogy" In J. C. Richards and R. W. Schmidt eds. Language and Communication. London: Longman, pp. 2-27.
  • Canale, M. and M. Swain (1980) "Theoretical Bases of Communicative Approaches to Second Language Teaching and Testing," Applied Linguistics. 1(1) pp. 3-47.
  • Chomsky, N. (1965) Aspects of the Theory of Syntax. Campridge, MA: MIT Press.
  • Dirven, R. (1990) "Pedagogical Grammar." Language Teaching. 23(1) pp.1-18.
  • Hymes, D. (1979) "On Communicative Competence" In C. J. Brumfit, and K. Johnson eds. The Communicative Approach to Language Teaching. London: Oxford University Press.
  • Larsen-Freeman, D. (1991) "Teaching Grammar." Celce-Murcia, M. (ed.) Teaching English as a Second or Foreign Language, 2nd edition. New York: Newbury House.
  • Rutherford, W. E. (1980) "Aspects of Pedagogical Grammar." Applied Linguistics. 1(1) pp.60-73
  • Saporta, S. (1966) "Applied Linguistics and Generative Grammar." Valdman, A. (ed.) (1966) Trends in Language Teaching. New York: McGraw Hill.
  • Sharwood Smith, M. (1981) "Notions And Functions in a Constrastive Pedagogical Grammar" In A. James and P. Westney eds. New Linguistic Impulses in Foreign Language Teaching. pp. 39-53
和文文献(翻訳文献を含む)
  • 伊藤健三村田勇三郎(1982)「学習文法」伊藤・島岡・村田『英語学と英語教育』(英語学大系12)大修館書店
  • 島田勇雄(1983)「解釈文法の原理」『日本語学』2(9) pp.4-11
  • 鈴木泰(1997)「古典文法をどう見直すか」『日本語学』16(4) pp.46-54
  • 時枝誠記(1941)『国語学原論』岩波書店
  • 時枝誠記(1950)『日本文法口語篇』岩波書店
  • 時枝誠記(1957)「文法学説と文法教育」『日本文法講座2文法論と文法教育』明治書院
  • 時枝誠記(1963)『改稿国語教育の方法』有精堂出版
  • 永野賢(1958)『学校文法概説』(改訂版1986)共文社
  • 馬場哲生(1992)「学習文法とは何か」金谷憲(編著)『学習文法論』河源社
  • 増淵恒吉(1981)『増淵恒吉国語教育論集下巻:文法指導論・表現指導論』有精堂出版
  • 森篤嗣(2009)「「英語の前に国語」の声に答えられる言語能力とは」森山卓郎(編著)『国語からはじめる外国語活動』慶應義塾大学出版会
  • 森山卓郎(1997)「形態重視から意味重視の文法教育へ」『日本語学』16(4) pp.8-17
  • 八木徹夫(1984)「口語文法は中学校で既習か」『日本語学』3(6) pp.49-58
  • 山口明穂(編)(1988)『国文法講座・別巻』明治書院

*1:早稲田大学大学院教育学研究科国語教育専攻「国語科教育演習(1)(町田)」