持田哲郎(言語教師@文法能力開発)のブログ

大学受験指導を含む文法教育・言語技術教育について書き綴っています。

古典文法と古文理解(その4)

英文理解と古文理解における文法の扱いの違い

英文理解における文法の扱いについては、「受験英語」が一定の貢献を果たしていると言って良い*1。だが、古文理解においてはどうであろうか。阪倉(1963:11)が「もともと文法なるものは、決して解釈のために整理され、組織立てられたものではなく、本来別の目的を持つものであり、解釈に役立つというのはその応用的一面に過ぎない」というように、古典文法は学習文法としての体をなしていなかった。阪倉の指摘から45年が経過した。英語はこの間に変形文法を英文理解に援用する試みや、Jespersenらの知見を援用しながら旧来の学校文法を英文理解のために再構成する試みが見られた。古文ではどうなのか。受験古文の理論的基盤がどこにあるのかは、私自身が不勉強であるゆえ、はっきりと断言できない部分が多々ある。だが、「所詮は日本語である」という甘えが古典文法を学習文法として整備するうえでの足かせになっていたのではないか、というのが、偽らざる印象である。

古典文法に見られる言語知識の断片化

高橋(1990:v)は、「読むことができるようにする学習は、古文も日本語として現代文と連続しているので、外国語の学習と違って、文脈をたどることは本質的に問題がない。したがって、極端にいえば、文法は動詞・形容詞・助動詞の活用、助詞・助動詞の接続の知識だけであり、あとは単語の学習として処理できる。」という。確かに極端である。古文学習が外国語学習と学習者にとってどの程度違うのかを検証できなければ、この主張は説得力を持たない。そもそも中等教育レベルの学習者は現代文を明示的な文法知識なしで本当に理解できているのかという問題も、考えていかなければならない。また、そうした理解ができていたとしても、高橋が学習の必要性を指摘している以外の文法知識を現代語から古語へ学習者がスムーズに転移できるのかどうかの検討も必要である。
現代語と古語の違いを考えるうえで、参考となることが1つある。樺島(1967)が日本語で分かち書きをしないのは漢字とかなを適当に混ぜて使っているからだと指摘している。確かに現代文ではほとんどの文節が「漢字+かな」となっている。しかし、古文では仮名書きの名詞も多く、動詞や形容詞の語幹もひらがなであることが多い。だとすると、学習者は現代文と比べ、古文ではチャンキングを困難に感じている可能性があり、チャンキングを可能にするには文文法の統語的な知識が必要になるのではないかと考えることができる。つまり、古典文法も文文法として整備せねばならず、一部の文法知識だけを断片的に扱っても効果的とは言い難いのではないかと思うのである。

参考文献*2

  • 樺島忠夫(1967)『文章工学:表現の科学』三省堂新書.
  • 阪倉篤義(1963)「文法と解釈」『国文学解釈と鑑賞』28(7) pp.10-15.
  • 高橋正治(1990)『古文読解教則本〈改訂版〉−古語と現代語の相違を見つめて』駿台文庫.

*1:この点に疑義を挟まれる向きは、このブログの過去のエントリを参照していただければ、私の言わんとするところがご理解いただけると思います。

*2:今回は50音順です。