持田哲郎(言語教師@文法能力開発)のブログ

大学受験指導を含む文法教育・言語技術教育について書き綴っています。

古典文法と古文理解(その3)

その1その2からずいぶん間が空いていますが、この問題を再び取り上げます。

文法の体系性と有用性

「文法のための文法」という言い方がある。松隈(1958)によれば、それは文法をひとつの学問として捉えた体系的知識を指すようである。松隈も認めているように、文法の体系的指導そのものに問題があるわけではない。ただ古文理解に役立たなければ、古典文法の知識はその学習意義を持たないのではないかというのが松隈の主張である。高木(1997)のように古典教育を文学教育と語学教育とに分離分化させるべきだという主張もある。これは細切れの現代語訳に終始しがちな古典教育に対する反省から生まれたものである。しかし、外国語教育に携わってきた者から見ると、高木の主張は英語教育における構文派とパラリー派の対立と同じ構図をなしているような気がしてならない。いかなる言語であっても「読む」という行為に文法知識が関与することは明らかである以上、何らかの形で文法教育を読解指導に組み込むのは当然である。問題はその方法であって、方法によっては「文法のための文法」のように受け取られがちな、明示的指導もありうるということなのである。

古文理解における文法指導

松隈(1958)は古文理解*1における文法指導の問題を次の3つの視点から考察している。

  1. 古文理解による文法指導
  2. 古文理解のための文法指導
  3. 古文の文法的理解の指導

1.は読解指導のなかで文法指導を行うものである。松隈は文法の全体像をはじめに提示し、学習者はその後読解学習をしながらつねに全体像を参照して文法現象の意識化を図っていくという方法を提案している。これは一見、文法指導が主で読解指導が従であるように見えるが、松隈はこれを否定している。しかし、これは受験英語の世界でおなじみの『英文解釈教室』シリーズの古文版とも言える方法であり、『英文解釈教室』は英文読解の学習全体から見れば文法学習として位置づけられるものである。英語教育では語学畑の人よりも文学畑の教師のほうが文法訳読を好むこともあるが、国語教育では文学畑の教師は文法を重視することに抵抗があるのかもしれない。松隈のどっちつかずの態度はそうした教師層への配慮から来るものであろう。
2.は古文理解に役立つような文法知識を体系的に指導するものである。ここで必要なのは、実際の古文に頻繁に見られる文法現象を中心に扱っていくということである。本格的な古文学習は10代後半に経験する学習者が大半であるから、ある文法現象がなぜそうなるのかという疑問に教師が答えられることが望ましい。これは英語教育で最近注目されているawareness raisingの考え方の古典教育への援用である。もちろん、上から下へ右から左へと読み進めていくときに、語順に即した理解を支えるような文法体系となるような記述・も必要である。国語学プロパーの古典文法と、学習文法としての古典文法は異なる体系をなす可能性があることが、このあたりで明らかになる。また、三浦(1974)に見られるような、今の分野でいうコーパス言語学的な統計資料も有効に活用したいところである。
3.はこの3つの視点のなかで最も重要なはずであるが、松隈の考察ははっきりせず、1.とどう違うのかが明らかでない。この松隈の論考からすでに半世紀が経過している。半世紀の間に古典文法がどのように変化したのか、あるいは変化していないのかということを、追求していく必要があるようである。

参考文献

  • 松隈義勇(1958)「古典解釈における文法指導」『続日本文法講座4指導編』明治書院
  • 三浦和雄(1974)『文語文法の用例と論考』明治書院
  • 高木一彦(1997)「なにのための古典教育か」『国文学解釈と鑑賞』pp.62(7) pp.21-28.

*1:松隈は「古文解釈」という言い方をしている。