持田哲郎(言語教師@文法能力開発)のブログ

大学受験指導を含む文法教育・言語技術教育について書き綴っています。

合同発表会発表資料(抜粋)

7月23日に行われた、早稲田大学大学院教育学研究科国語教育専攻・町田研究室のMD合同発表会で発表したときの資料を掲載いたします。今回はこれまでの研究を博士後期課程の方々に報告する意味あいもあったため、ブログへの掲載にあたっては過去に掲載した部分と重複する部分を割愛させていただきました。

メタ言語能力と国語教育

国語教育におけるメタ言語教育の扱い:「言語感覚」について

メタ言語能力」という用語を国語教育の文脈で初めて用いたのは大津(1989)であるが、同様の概念を取り上げることはそれ以前においても見られた。古くは国民学校の国定文法教科書での文法の扱い方という観点から岩淵(1944)が次のように述べている。

一體われわれの用いてゐる言葉は、一見雜然としてゐるやうで實はそこに嚴とした理法が存するのである。われわれが言葉を用ゐる場合には、常にこの理法に從つている。唯この理法は普通意識されることがなく、反省してはじめて自覺し得るものである。(岩淵1944:30)

岩淵の言う「理法」が文法である。そして「反省してはじめて自覺し得る」に至らしめるのがメタ言語能力である。自覚した理法もまた文法であるが、こちらは明示的な知識であり、文法教育でその対象とされるものである。
戦後は永野(1958)が「確かな、完成した言語能力を養うために、文法的な意識を高め、自覚を深めることが必要になるのである。」(永野1958:21)と、「文法的意識」という言い方でメタ言語能力に相当する概念に言及している。永野に限らず、後述のとおり、文法教育の目標としてメタ言語能力(に相当する意識・能力)の育成をかかげているものも少なくない。また、大津(1989)は、国語教育においてはメタ言語能力の発達という概念が、「言語感覚の養成」、「知的訓練」、「言語構造・言語機能についての認識の深化」という言い回しで捉えられてきたと指摘している。
このうち、「言語感覚」という用語は国語科の学習指導要領のなかでも使われている。最も早い時期で使われた例は1947(昭和22)年の試案に見られる。第四章「中学校学習指導要領」第四節「読みかた」の「一 一般目標」で掲げられている9項目のうち、4項目めに「正しい言語感覚をやしない、標準語を身につける。」とある。ただし、この「言語感覚」という用語に対する公式の解説はなく、その後この用語は国語科学習指導要領からいったん姿を消している。次に言語感覚という語が使われたのは1960(昭和35)年告示の『高等学校学習指導要領』の「古典甲」でである。そこでは、「古典に親しんで、国語に対する愛情を育て、言語感覚をみがくようにする」という事項が「内容」のなかに盛り込まれている。なお、このときの「現代国語」では「すぐれた文章表現を読み味わうことによって,ことばに対する感覚を鋭くすること。」となっており、「言語感覚」という語は用いられていない。その後、1969, 1970(昭和44, 45)年告示の「学習指導要領」から国語科の目標で、「言語感覚」という用語が使われるようになり、現在に至っている。
このように40年以上にわたって国語科教育において用いられている「言語感覚」という用語であるが、これが研究者や学校現場で共通の理解が得られているのであろうか。浅田(1992)は、「「言語感覚」という用語は日本の国語教育界においてはよく用いられ、言葉自体は既に定着したと言ってよいが、最近はその用語が自明のものとして流布してしまっているという感がある。」(浅田1992: 101)と指摘し、甲斐(1988)も国語教育の現場で明確に理解されてはいないと指摘している。その理由として、浅田は「言語感覚」という用語の「感覚」という語が比喩的に用いられ、また一般に多様な意味で広く用いられている語であるためとしている。甲斐は国語学言語学の専門分野で取り上げられていないことを理由として挙げている。さらに町田(2001)は、「そもそも感覚を指導することができるのかという本質的な問題もある」と述べており、その概念はともかく、この用語に対する違和感が理解・定着の妨げとなっていることがうかがえる。
これまでに試みられた言語感覚の定義を見ていくことにする。浅田(1992)は言語感覚を次のように規定している。

言語主体が言語を表現乃至理解する際、表現乃至理解される個別的な言表と、その言語主体が属する集団における社会言語体系との間の差異や、個別的な言表相互の差異を、認識乃至感得する能力。(浅田1992: 108)

浅田の定義にある「社会言語体系」とは湊(1987)によるもので、湊はこれをソシュール(1972)の「言語(langue)」に相当する概念であると述べている。湊も言語感覚の定義を試みている。

端的に言語感覚を規定するならば、それは、音声・文法・語彙などの社会言語としての言語形式そのものについて、そして現実の場でのその適用について、個人が総合的直観的に評価し、判断する力ということになるだろう。それは、言語形式に伴う形態感情や、言語形式の知的意味の背景に働く情意的意味などと深い関連を持つものである。(湊1975: 166)

言語主体の言語知識・言語技能を言語生活の実際的場面の中へと主導し展開させてゆく上の、その誘導的因子のになう作用として規定することが可能な基礎的作用である。(湊1995: 27)

湊(1975)の定義は、言語感覚の対象を音声・文法・語彙などの言語形式や言語形式に対する形態感情やその背後にある情意的意味としている。また、湊(1995)は、言語感覚の対象を実際的場面の中へ展開する言語知識・言語技能である。これらはメタ言語能力が対象にするものと近いものと考えることができる。また、湊(1975)での対象を個人が総合的直観的に評価し、判断するという点においてもメタ言語能力の概念との親近性を認めることができよう。
メタ言語能力と言語感覚の概念には重なり合わない要素もある。町田(2001)の定義は、「ことばの正誤、適否、美醜などについて判断する感覚」(町田2001: 32)であり、甲斐(1998)も、言語感覚を(1)美醜、(2)正誤、(3)適切さ、(4)微妙な意味差の理解、(5)心遣い・表現効果、(6)語句への関心、の6種に整理しており、やはり美醜という要素を含めている。町田は正誤・適否は客観的な基準が存在するが、美醜は本来主観的な価値基準であると指摘している。また甲斐は「国語教育の分野で問題にするのは、国語の深みとしての万人共通の言語感覚の習得を通して、個々人の言語感覚を育成することでなければならない。」(甲斐1988: 75)と主張している。
これらの点を踏まえると、言語感覚には言語表現の正誤・適否といった万人共通で客観的な要素と、言語表現の美醜にかかわる個々人の主観的な要素とがあることになる。前者の要素はメタ言語能力として捉え直していくことが可能であろう。確かに、「感覚」と「能力」とは確かにまったく別の語である。だが田近(1982)はこの「感覚」を「直観的に何かを感じる主体の内的な働き」(田近1982: 255)と、心的過程として捉え、浅田(1992)はさらに進んで「能力」として規定している。「感覚」という用語には主観的なニュアンスを持ち、その感覚を指導することができるのかどうかという町田が示した問題も、能力として捉え直すことができれば解決するのである。

メタ言語能力と文法教育

言葉の熟練した使い手はメタ言語能力が高い。この能力は先天的なものではなく、年齢が上がるにつれて発達させていくものである。母語の能力にともない母語に対する直感が働くようになる。これがメタ言語能力の萌芽であり、この直感を意識化させ、メタ言語能力の発達を促進していくことが効果的な言語運用の礎となる。国語科においてメタ言語能力の育成が重要な目標とひとつとして掲げられるのはそのためである。
大津(1989)が指摘しているように、国語教育においてはメタ言語能力の発達という概念が、「言語感覚の養成」、「知的訓練」、「言語構造・言語機能についての認識の深化」という言い回しで捉えられてきた。このなかの「知的訓練」「言語構造・言語機能についての認識の深化」などは文法教育の問題として考えられてきた。松崎(1991)が、従来の国語科の授業ではメタ言語能力の育成という意識が希薄であったと指摘しているが、そのような状況に陥った原因は文法教育に対する多くの国語教師の考え方あると考えられる。
国語科における文法教育の目的は、古典文法(文語文法)と現代語文法(口語文法)で異なる*1。古典文法教育の目的は古文解釈のためという一点に集約されるが、現代語文法教育の目的については意見が分かれている。これらを大きく分けると、日本語の理解や表現の能力を高めることに直接結びつけようとするものと、間接的に結びつけようとするものがある。また、両者の中間に位置づけられる立場のものや、言語学習を超えたところに目標を定めているようなものもある。
現代語文法教育を日本語の理解や表現の能力を高めることに直接結びつけようとする立場は、時枝(1950a, 1963, 1967, 1984)に見られる。時枝は「文法教育の目的は、言語表現の法則を教えることであり、言語の実践の方法を教えることである」(時枝1967: 10)と説いている。時枝は文法教育の目的を、言語表現の法則を教えることと、言語の実践の方法を教えることとの2点を掲げている。時枝は文法知識を「言語表現の法則」と捉えていることになるが、これは時枝が文法の概念を語論・文論・文章論と広く捉えているためである(時枝1950b)。その文法知識の習得の方法として、時枝(1963)は一通りの知識を体系的に学習しておくことが効果的であると述べている。言語の実践とは理解と表現である。時枝(1950a)は、文法学習が理解と表現に役立つことによって目的が達成されると主張する。
文法教育は理解や表現の能力を高めるために行い、そのためには小学校の段階から系統的な文法指導を行うべきだという立場に立つのが、教科研(1963)である。教科研は子どもの発達段階に応じて系統的に文法知識を与えていくことが有効であると提唱する。また、こうした文法教育は読解や作文の教育の中で行うのでは十分な成果をあげることができないので、とりたてて独自の系統を立てる必要があると主張する。その理由として、ここの文法的事実が互いに関連していて、ばらばらに扱っては学習者がそれを正しく捉えることができない点を挙げている。同時に文法教育をとりたてて行うことは機械的な切り離しではなく、読解教育や作文教育との関連づけていくことの必要性も指摘している。これらは戦前からの文法教育が文語文法の導入としての意義しか持たず、現代語の知識としては有効に機能しなかったことへの反省から生まれたものである(鈴木1963)。*2
教科研文法の記述は、従来の、そして現在でも一般的な学校文法と比べて現代日本語の言語事実を的確に反映した部分が多いといえる。それにもかかわらず、この文法が広く普及することはなかった。その理由として、森(2004)も指摘するように、橋本の文法記述を基本とする学校文法に慣れ親しんでいた学校現場に受け入れられなかったということもあろう。また、森の指摘とは別に考えなければならないことは、演繹的、体系的、明示的な文法教育でなければ文法力を身につけさせることができないのかという問題である。国語科で学習対象となる言語は第一言語、すなわち母語としての日本語であるから、教室で言語習得そのものを支援しなくても支障はないと考えがちである。このことが文法教育の刷新を妨げている可能性は否定できない。
これに対して、現代語文法教育を日本語の理解や表現の能力を高めることに間接的に結びつけようとする立場がある。この立場は文法意識を高めることに重点を置いており、メタ言語能力の育成につながる考え方であると言える。こうした考えそのものは戦前から見られる。明治以来文語文法中心の文法教育が1931年に口語文法も教えることに方針転換し、その目的を橋本(1946)は次のように述べている。

言語を習得させる爲には、是非文法の知識をそのまゝ授けなければならないのでなく、實際の言語になれさせるだけでもよい。しかし、文法の知識は、實際、言語の中に行はれてゐながら、明かに捉む事が困難なきまりを、自覺させ意識させるものであるが故、その言語を教授するものには是非必要なものであり、學ぶものにも之を授けた方が効果が多いのであつて、これによつて言語を正しく解し、又誤に心附かしめる事が出來る。(橋本1946: 335)※強調は発表者による

橋本は、言語運用の中で無意識的に使用される文法知識を自覚し意識化することが口語文法教育の目的であるとするのであるが、この考え方は口語文法が教えられるようになる前から存在した。山田(1923)の巻頭には、「多くの文例より推して文法上の法則を發見せしめ」と、詰め込み型の学習を避けるための配慮として文法の法則に意識を向けさせる発見型学習が提唱されている。このため、口語文法教育の目的は説得力を欠き、一般には文語文法を指導する前の準備として口語文法教育が捉えられるようになった。橋本の文法の枠組みは現在の学校文法でも根幹をなしているためもあり、こうした捉え方は現在でも支配的である。金水(1997)は文法教育の実情を次のように批判している。

学校文法に基づく古典解釈のメソッドが確立された結果、文法は完全に暗記の学問となってしまった。古典ではまだ学校文法が実効的に働くからいいのである が、学校文法の現代語文法は実は古典文法を導入するための仮構された悪しき折衷と妥協の産物であり、辞書の品詞分類以外にはほとんど役に立たない。(金水1997:122)

また、自覚や意識による文法の発見学習そのものが、戦前においては広く定着してはいなかった。徳田(1965)は戦前の文法教育の方法は演繹的な規範主義であり、帰納的・経験的ということも暗記の仕方の工夫程度のものでしかなかったと指摘している。
こうした事情があり、時枝は文法現象の観察を文法教育の目的とすることを否定し、「獲得した文法知識によつて、正しく話し、かつ読むことが出来るやうにすることが大切で、文法的知識によつて、国語の実践を、より自覚的に、より確実にすべきである」(時枝1963: 137)と主張している。国語の実践を自覚的にするということは、理解や表現をモニタリング(Nelson and Naren, 1994; 三宮1996)するということであり、そこではメタ言語能力を行使することになる。問題は、そのモニタリングの前提となるメタ言語能力の発達を促進するような文法教育をどのように行うかである。橋本も時枝も、この点に対する明確な提案は行っていない。
国語科教育において、現代日本語は多くの学習者にとって母語である。森山(2004)などが指摘するように、母語以外の言語の学習で文法学習が必要となるのとは違い、母語として習得している言語ではその必要がない*3。こうした事情から、「文法指導は、国語についての関心を高め、自覚をうながすためのものである」(倉沢1959: 28)という考えに至ることになる。倉沢は、この関心・自覚を「文法的意識」と呼んだ。すでに言及した永野(1958)も「文法的意識」という言葉を用いており、この時期にメタ言語能力と重なる概念が文法教育の文脈で言及されるようになったと言えよう*4
この立場では、学習者が母語である日本語を無意識のうちに習得し、無自覚に使用しているということを前提としている。まずは母語の文法知識として内在化されているものを意識化して、その意識化して得られた知識を理解や表現のために生かしていくという手順を経る。確かに、安部(2001)が指摘するように、学習者は国語を学ぶ時点で相当のレベルで日本語を自由に話し、理解できるようになっている。同時にメタ言語能力も発達し、ある表現がおかしいと判断したり、どう訂正すればよいかという判断も可能になる。しかしそれは、日本語社会を構成する言語生活者として十分な水準ではない。鳴島(2004)は、母語話者の思考が完全な文の形を取っていないため、話し言葉が文法的には不完全なものになりがちである点を指摘し、書き言葉に習熟するには文法知識が必要であるとしている。また、前田(1980)は、作文における文法上の誤りは文法を知らないために生じたものではなく、文法を知っていながらちょっとした不注意のために生じた誤りであると指摘している。このため、書いたものを見直すように注意を促せば、誤りに気づくという。
文法的意識を高めることは文法的に考えることにもつながっていく。日常言語に潜む、法則性や意味を見いだしていく学習経験が考える訓練となる(森山2004)。Clark(1978)によれば、メタ言語能力が高度に発達するとある文がなぜ可能であるのかや、その文をどう解釈すべきかということを説明することができるという。この段階になるとメタ言語能力の利用が思考訓練という性質を帯びてくる(松崎史周2005)。森山(1994)は、学習者が文法的に説明するには、根拠を示しつつ客観的に考えることと、できるかぎり一般化された形で法則を提示していくことの2点に留意する必要があると述べている。森山はさらに、重要なのは学習者が文法を覚えることではなく、見つけることであり、教師もまた、文法を教えるのではなく共に考える立場に立つことが必要であると述べている。

メタ言語能力の育成と体系的文法指導

戦後の国語科教育における文法教育をめぐって議論されてきたことのひとつに、「体系文法」か「機能文法」かという議論がある。「体系文法」とは文法の体系的指導であり、文法を記述の順序に沿って明示的に指導していくものである。これに対して「機能文法」では表現や理解の実践のなかで文法指導を行うものであり、文法そのものを独立させて指導することはしないという考え方である。機能文法を支持する立場の中には渡辺(1957)のように、モニタリングやコントロールというメタ認知的活動におけるメタ言語能力の行使につながる文法学習観を示すものもある。*5
学習者による「気づき」を重視する文法教育は、機能文法に分類される。機能文法に対する批判としては、文法指導が場当たり的になって文法知識が定着しないというものがある。だが、頻度の高い文法事項は、学習者が実際の理解・表現行為の中で頻繁に直面せねばならず、効果的な理解・表現のためにその都度意識するようにしていけば、体系的ではないからといって必ずしも知識が定着しないことにはならない。また、「文法教育は、結果においては体系化を図らせるべきである。しかし、そのような体系は「到達すべき結果」であって、当面の目的はいきつくまでの過程的学習にある。」(倉沢1959: 46)というように、メタ言語能力を高める文法教育では、学習者の気づきを重視するべきであり、帰納的なアプローチを取る必要がある*6
帰納的アプローチを採用するにあたっては、教育文法*7の体系を大きく見直していく必要がある。帰納的指導においては、学習者は文法規則よりも先に生の言語現象に触れることになるため、その文法知識は実際の言語使用を反映したものでなければならない。そうでないと「「規則が正しく現象が間違っている」といった、実際の言語現象を素直に観察する目を歪めてしまう危険」(安部2001: 41)が生じてしまう。また、「学校文法の知識や理解度と、言語の文法的分析力や言語生活者としての運用力とが必ずしも連動するわけではない」(伊坂2007: 41)という問題も出てくる。もちろん、一定の規範性が文法には必要だが、その規範を現実に用いられる可能性の極めて低い形式に求めてはならない。
帰納的アプローチでは、学習者の持つ文法知識は初めのうちは断片的なものである。しかし、教師が持つべき文法知識はあくまでも体系的なものでなければならない*8。ここに教育文法を「学習者文法」と「教師文法」に分けて考えていくことが必要になる。この区別のあたっては、外国語教育の分野での論考であるが、Sharwood Smith(1981)のconcentratedとextendedの概念が参考になる。extendedは教師や上級学習者向けの参照用の文法である。これに対してextendedは、特定の学習者、特定の学習活動に向けた文法である。concentratedは汎用性の高い文法知識の体系で、教師文法もここに位置づけられる。このconcentratedを習得しやすいように単元ごとに工夫したものがextendedであると考えることができる。
問題は、concentratedの中身である。金岡(1969)が指摘するように、こうした文法は考え出されていない。このことは金岡の指摘から40年以上経過した現在に至っても進展が見られない。学校文法が指導上、内容上の問題を抱えていながら教育現場で依然として指導されている理由として、山本(2001)は、学校文法に代わる教育文法がないこと、指導しやすい理論的基盤を学校文法が有していたこと、学校文法がすでに制度として固定化してしまっていることの3点を指摘している。学校文法に代わる文法がないというのは、教育文法として、という意味である。国語教育のための教育文法と、言語学国語学・日本語学における理論文法・記述文法とは区別する必要がある。これについて、島田(1983)は次のように述べている。

理論文法の樹立の目的は日本語の理論的把握のための理論体系の確立にあって、教師のための実用的目的に奉仕することは意図されていない。したがってそれは理論文法のミニ版とも言うべき文法単元の指導には役立つかもしれないが、それ以上の役割期待は本来過大期待なのである。(島田1983: 4)

また、学校文法が指導しやすい理論的基盤を持っていたということについては、八木(1984)は、時枝文法が教科書に登場した際は現場は拒絶し、山田文法については南海で教育文法に向かないという現場の声があったことを指摘している。この事実は学校文法が依然として特定の理論に依拠しなければならないという思いこみが現場にあるということを反映している。そして、最も大きいのが3点目の制度化してしまっているという点である。
新たな教育文法の方向性としては、まず「「実践法則」であると同時に「認識法則」である文法」(徳田1965: 72)を目指すことになる。これは、時枝(1941)で言う「主体的立場」と「観察的立場」の両方から文法を捉えることを意味する。メタ言語能力を利用して言語活動をモニタリングする際の文法知識は主体的立場から扱う実践法則であり、言語知識を客体化してメタ言語能力の発達を促進させていく際の文法知識は観察的立場からの認識法則である。

現代語文法と古典文法の関連づけ

ここまでは主に現代語文法の教育・学習についてみてきた。古典文法教育の目的は古典解釈のためと明確であるが、現代語文法教育とどのようなかたちで接続を行っていくべきであろうか。従来は現代語文法教育を古典文法教育の準備段階と位置づけていたが、田中(1981)が指摘するように、学習者が初めて母語の文法を学ぶときにその文法が古典文法への橋渡しを前提にするのは健全とは言えない。また、現代語文法の知識を古典文法学習の前提とする必要もない(山口(編)1988)。さらに、中等教育の前半のみが義務教育となっている現状では、中学校で行う現代語文法教育を高等学校で行う古典文法教育の前提とするのは制度上からみても問題である(永野1986)。
現代日本人には、古語は母国語ではあるが、母語ではなく、むしろ感覚的には外国語に近い(高木1997)。しかし、外国語の教育が理解と表現の両方を目指すのに対し、古典の教育では理解だけで十分である。すると、青木(1997: 32)が指摘するように「表現に結びつかない文法は、特殊な用法などに目がいきがちで体系的なものにはなりにくい」ということになる。また、長尾(1969)は、学習者が古典に対して外国語に対するような抵抗を感じていると、教師はその抵抗を取り除くために語句・語法の指導に重点を置き、その結果として品詞分解的な注釈作業に終始する危険性があることを指摘している。こうした事情もあり、学習用古典文法書の多くはその内容の大半が語彙学習領域で占められている(中村1995)。現代語文法を古典文法の準備段階としてしか捉えられない場合、古典文法が品詞分解のような語論レベルの学習が中心であれば、現代語文法の教育もそのコピーになってしまう。このため、現代語文法教育の再検討は古典文法教育の再検討と連動させる必要がある。
そこで、高等学校初級 に、現代語と古語を対比させながら古典文法を学んでいくような方法を提案したい。町田(2001)が提案する「古語と現代語の意味や響きの差異などを通して、より広い視野から言語感覚をとらえる」(町田2001; 33)という視点から、古典文法教育を考えていくのである。高木(1997)は、現代日本語の説明には古語との比較・対照が役立つと指摘し、森山(2001)もその重要性を指摘している。こうすることで学習者の気づきを大切にした文法教育が古典文法教育においても可能となり、古語と現代語とを対比させることにより、現代語への意識を高めることにもつながるはずである。ただし、原文と訳文を対照させた場合、その対応関係を学習者の力で捉えることが困難であるという指摘もある(野口1984)。この要因として考えられるのが、学習者の現代語の文法知識が不十分であるということである(青木1997)。
メタ言語能力の発達を促進させるというと、現代日本語へのアプローチを小学校において外国語活動に先立って行うという考え もあるが、増淵(1981)や岡田(2005)が指摘するように、メタ言語能力には個人差がある*9ため、メタ言語能力の育成を小学校や中学校に限って行うのは得策とは言えない。小学校から高等学校に至るまでのなかで、メタ言語能力の発達を促進させる機会をより多く設けるべきである。

参考文献

  • Clark, E. V. (1978) "Awareness of Language: Some Evidence from what Children Say and Do." in Sinclair, et al. eds. (1978).
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  • Sinclair, A., R. J. Jarvella, and W. J. M. Levelt eds. (1978) The children's Conception of Language. Berlin: Springer-Verlag.
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  • 伊坂淳一(2007)「文法指導の課題」『月刊言語教育』27(9) pp.40-43
  • 岩淵悦太郎(1944)「国定文法教科書に就いて」『国文学解釈と鑑賞』9(4) pp.28-34
  • 大津由紀雄(1989)「メタ言語能力の発達と言語教育」『言語』18(10) pp.26-34
  • 岡田伸夫(2005)「言語理論と言語教育」大津・坂本・乾・西光・岡田『言語科学と関連領域』(言語の科学11)岩波書店
  • 甲斐睦朗(1988)「言語感覚の概念」『国語国文学報』pp.69-76.
  • 金岡孝(1969)「教科文法の役割と限界」『文法』1(8) pp.108-115
  • 教科研東京国語部会・言語教育研究サークル(1963)『文法教育:その内容と方法』東京:麦書房
  • 金水敏(1997)「国文法」益岡・仁田・郡司・金水『文法』(岩波講座言語の科学5)岩波書店
  • 倉沢栄吉(1959)『文法指導−ことばの基礎能力−』朝倉書店
  • 三宮真智子(1996)「思考におけるメタ認知と注意」市川伸一(編)『認知心理学4思考』東京大学出版会
  • 島田勇雄(1983)「解釈文法の原理」『日本語学』2(9) pp.4-11
  • 白石大二(1958)『教育文法論』誠信書房
  • 鈴木重幸(1963)「文法教育をすすめるために」奥田靖雄・国分一太郎(編)『読み方教育の理論』国土社
  • 鈴木重幸(1972)『日本語文法・形態論』麦書房
  • ソシュール, F. de (1972)『一般言語学講義』改版 東京:岩波書店
  • 高木一彦(1997)「なにのための古典教育か?」『国文学解釈と鑑賞』62(7) pp.21-28
  • 田近洵一(1982)『現代国語教育への視角』東京:教育出版
  • 田中章夫(1981)「文法教育を考える」『文学』49(9) pp.82-93
  • 時枝誠記(1941)『国語学原論』岩波書店
  • 時枝誠記(1950a)『中学国文法別記口語編』中教出版.
  • 時枝誠記(1950b)『日本文法口語篇』岩波書店
  • 時枝誠記(1955)『國語學原論続篇』岩波書店
  • 時枝誠記(1957)「文法学説と文法教育」『日本文法講座2文法論と文法教育』明治書院
  • 時枝誠記(1963)『改稿国語教育の方法』有精堂出版
  • 時枝誠記(1967)「文法教育上の諸問題」時枝誠記(監修)松村明森岡健二宮地裕・鈴木一彦(編)『文法指導の方法』(講座日本語の文法4)明治書院
  • 時枝誠記(1984)「文法教授に対する卑見」『時枝誠記国語教育論集?』明治図書
  • 徳田政信(1965)「文法教育の矛盾をどう解決するか−語法意識の発達過程と文法教育の原理−」『日本文学』14(1) pp.67-76, 32
  • 長尾高明(1969)「古典と文法」『文法』1(5) pp.20-25
  • 永野賢(1958)『学校文法概説』朝倉書店(改訂版1986共文社)
  • 中村幸弘(1995)「文の構造はどう教えるべきか」『国文学解釈と鑑賞』60(7) pp.118-125
  • 鳴島甫(2004)「口語文法教育のあり方」『月刊国語教育』24(7) pp.12-15
  • 野口元大(1984)「高校古典入門期教材の扱い」『日本語学』3(6) pp.16-23
  • 橋本進吉(1946)『国語学概論』岩波書店
  • 林史典(2004)「母語の運用と文法教育」『月刊国語教育』24(7) pp.36-39
  • 藤原與一(1942)「文法教育について」『コトバ』4(1) pp.39-47 國語文化研究所
  • 前田正人(1980)「文法教育について」『神戸大学教育学部研究集録』64, pp.1-8
  • 町田守弘(2001)「国語科教育における言語感覚−言語感覚育成のための学習指導」『日本語学』20(8) pp.26-33.
  • 松崎正治(1991)「《メタ言語能力》を育てる教材の開発」『国語科教育』38 pp.27-34
  • 松崎史周(2005)「文法指導で養う学力とは」『全国大学国語教育学会発表要旨集』109 pp.15-18
  • 湊吉正(1975)「言語環境・言語感覚・言語認識」全国大学国語教育学会(編著)『国語科教育学研究』学芸図書
  • 湊吉正(1987)『国語教育新論』明治書院
  • 湊吉正(1995)「言語感覚とは何か」『月刊国語教育』14(12) pp.25-28
  • 森篤嗣(2004)『学校文法拡張論−インダクティブ・アプローチに基づく文法教育の再構築』大阪外国語大学博士論文.
  • 森山卓郎(1994)「文法指導の改善へ向けて−日本語教育から国語教育への提言−」『月刊国語教育』13(13) pp.22-25
  • 森山卓郎(2001)「これからの古典指導の基本方向」『月刊国語教育』21(7) pp.28-31
  • 森山卓郎(2004)「文法学習の再検討」『月刊国語教育』24(7) pp.28-31
  • 八木徹夫(1984)「口語文法は中学校で既習か」『日本語学』3(6) pp.49-58
  • 山口明穂(編)(1988)『国文法講座・別巻』明治書院
  • 山田孝雄(1923)『中等教育日本文法教科書上巻』訂正再版 東京宝文館
  • 山本清隆(2001)「学校文法の問題点に関する総論的考察」『信州大学教育学部紀要』102, pp.19-27
  • 渡辺修(1957)「機能文法と体系文法」『日本文法講座2文法論と文法教育』明治書院

*1:「口語文法」と「文語文法」という用語については、次の説明が参考になる。「一般に学校教育の上では、現代語の中に口語と文語、つまり話しことばと書きことばの区別があるにもかかわらず、これらを総括して「口語」と呼び、それに基づいて考えられる文法を「口語文法」といっている。そし、この口語に対し、平安時代の文語をもとにした、書くだけに用いられた明治以前のことばを「文語」といい、その上にある文法を「文語文法」と呼び慣わされている。」(戸高1968: 104)

*2:この目的のために記述された文法が鈴木(1972)などに見られる。

*3:林(2004)は、そのように知識として教え込むことを「正しくない」と主張している。

*4:ただし、藤原(1942:44)は国民学校の「語法教育」に触れ、「我々にとつて必要なのは語法感覺ではないか。少くとも子供の爲には之を錬成することが急務である。語法以前と言ふか要するに「體得」させるものが欲しいのである」と述べている。

*5:「新しい文法学習は、言語実践(表現と理解)のために、手段選択の基準として習得しようとする。文法によって、その手段のもたらす結果を予見し、実践をより効果あらしめるように改造するために学習するのである。」(渡辺1957: 301)

*6:この立場からの提案が森(2004)に見られる。

*7:「教育文法」という用語は国語教育においては、白石(1958)で用いられたのが最初である。白石は教育される文法の範囲・程度について論じるためにこの用語を用いたと述べている。

*8:これについては、「応用を重んずる実用文法では、教師の体系的知識が、よほどしっかりしていないと、実用問題を処理しきれないこともある」(永野1986: 36)という指摘があり、機能的文法指導の方が教師に要求される知識水準が高いものになるといえる。

*9:増淵は「メタ言語能力」という用語は使っていないものの、「小学校・中学校・高等学校を通じて、文法教育のねらいの一つは、生徒の言語意識を洗練し言語について敏感ならしめる点にある。言語に対する勘を鋭くさせるのである。総じて、先天的勘の鋭い子供とそうでない子供とがいる。しかし、勘は演練によっても鋭くなるものである。」(増淵1981: 6)という記述が見られる。