持田哲郎(言語教師@文法能力開発)のブログ

大学受験指導を含む文法教育・言語技術教育について書き綴っています。

修士論文とこれから

ご案内

今日掲載するのは、2012年1月20日に行われた所属研究室の修士課程・博士後期課程合同発表会で配布した資料の本文です。修士論文に添付した概要とは少し違った角度から振り返ったところもあります。

修士論文の位置づけ

今回の発表にあたり、発表者自身の問題圏のなかでの修士論文の位置づけを明らかにしておきたい。発表者の現在の関心は、日本で生活する学習者に必要な言語能力を身につけさせるために言語教育がどうあるべきかという点に収斂させることができる。そのためには学校教育において国語科教育と外国語科教育との連携が必要であると考え、その連携のもとでの国語科の役割の一端を文法教育の観点から考察したのが今回の修士論文である。したがって、修士論文でまとめたものは、これからの言語教育のカリキュラムのうちのごく一部にすぎない。修士論文では授業実践へ向けた単元構想を示したところまでしかまとめておらず、検証ができていない。しかしながら、修士論文が元来執筆者の問題圏全体を照射することが不可能であることを考えれば、2年弱という限られた研究期間の小括的なものとして修士論文を捉えるべきではないかと考えている。

修士論文の概要

たとえば、「食べている」という日本語が表すことを英語で表すときに、"I am eating."と表す場合と、"I have eaten."と表す場合とがある。もちろん両者の意味は異なる。かつては日本語でも前者を「食ふ」、後者を「食ひたり」として言い分けが行われていた。ところが当時は逆に現代の「食べる」と「食べている」の一部用法を「食ふ」で表していたことになり、「食べる/食べている」と「食ふ/食ひたり」の使い分けの境界が古典語と現代語では異なっていることがわかる。こうした言語事実に着目すると、英語を学ぶときに必要な文法知識を身につけるには、日本語の文法を自覚的・分析的に捉えられるほうが効果的ではないかと考えることができる。そしてそうした日本語への意識を高めるには古典語の文法教育も役立つのではないかとも考えることができる。こうしたプロセスによって高まる能力は「メタ言語能力」とよばれ、修士論文では古典語文法教育がその向上に役立つのではないかという見通しから、高等学校「国語総合」での単元を構想した。修士論文ではこうして向上したメタ言語能力が現代日本語をより効果的に使うことにつながる点についても言及した。
修士論文は大きく2つの仮説の提示で構成されている。1つは、理論的仮説である。文献研究によりメタ言語能力の発達を促進することが、日本語を母語とする学習者にとって日本語の学習・運用、外国語の学習・運用の両方に効果的であることがわかった。そしてこれが国語科教育の領域においては古典語の文法教育において可能であることも明らかになってきた。もう1つの仮説は単元構想である。理論的考察から高等学校「国語総合」で考えられる単元についていくつか提示することとした。修士論文の中ではこれらはいずれも検証していない。教育の研究において理論的仮説は教室での実践において検証されるべきであるが、発表者が実践の機会が得られなかったため、「理論的仮説」→「仮説に基づく実践構想」という形でまとめざるを得なかった。

「ことば」から逃げない言語教育

修士論文の執筆を通じて発表者が強く訴えたいことは、国語科教育は言語教育の一環として行われるべきであり、言語教育である以上、ことばから逃げてはならないということである。国語科の教師の中にはことばそのものに焦点を当てた授業はつまらないと思いこんでいたり、あるいは教師が文法や語彙に興味があっても、学習者が興味を示さないので授業では扱わないということが多いようである。しかし、ことばに対する興味・関心はメタ言語能力の根底にあるものであり、学習者に持たせることは言語能力を育成するために必要なものである。また、学習指導要領に掲げられた「伝統的言語文化」を支えるものはことばそのものであり、日本語こそが日本に暮らす人々の文化的紐帯である。修士論文でことばに興味関心を学習者に抱かせるための単元を提案しているのもこのためである。

修士論文執筆で学んだこと

英語教師である発表者が国語教育の領域で修士論文を執筆していく過程で学んだことは、けっしてヨコのものをタテにすることだけではなかった。英語と日本語との違いや、第二言語第一言語という言語学や心理言語学に関わる部分は、修士論文を執筆する前から学びなおす必要があると十分認識していた。しかし、発表者にとってもっと大きな学びは授業のあり方に関わるところであった。発表者はこれまで講義形式の一斉授業を行うことが多く、タスクに基づく言語教育(Task-Based Language Teaching: TBLT)なども知識としては知っていたが、それを実践することはなかった。しかし、文法教育のあり方について考察していくにつれて、学習者個人、あるいは学習者同士のグループによる活動を盛り込んだ授業の方が効果的であることが徐々に明らかになった。このため授業のあり方についても、先行実践や教育方法学の文献にあたり、理解を深めていくようにしていった。こうした学びは同時に、理論と実践、教育学と内容学といった縦割り型の研究の限界に改めて気づかされることとなった。教師の持つ問題意識は、教師自らが分野横断的、学際的なアプローチで解決していかなければならないという思いをいっそう強くした。

今後の課題

今後の課題は大きく3つある。1つは理論的な課題である。修士論文は国語科における授業構想を示すことを目標としたものである。このため、国語科教育と外国語科教育が連携していくために必要な、日本語をどのように身につけていれば英語が効率的に学べるかについての答えは出せていない。言語転移の問題を中心とした第二言語習得研究など、心理言語学の分野における研究を進めていく必要がある。特に、日本語の母語話者の持つ漢字知識が英語のラテン語ギリシア語形の形態素の習得にどう作用するか、日本語の古典語のテンス・アスペクトの知識を持つことの、英語のテンス・アスペクト習得への影響など、先行研究が少ない領域があり、まだまだあきらかでない点が多いといえる。
2つ目も理論的な課題であるが、こちらは教育文法についてである。教育文法についての提案は修士論文では不十分であり、この内容を充実させ、実際の授業に使えるものにしなければならない。日本語の歴史的変遷を的確に記述した文法を軸に、漢文教育に活かせる古典(文言)中国語の文法、そして学習者が並行して学習する英語の文法と比較対照できるような体系を構築し、それを国語教師、英語教師が共有できるようにしていく必要がある。これは発表者自身がこうした知識をまず身につけて自らの授業実践に生かしていくことが大切であると同時に、そうした知識をいかに多くの言語教師に身につけてもらえるのかということも考えていかなければならない。ごく少数の文法好きの教師が興味本位で文法知識を身につけて細々と実践するのではなく、真に力の付く授業であるならばそれを普及させるための努力もまた怠ってはならないと考えている。
最後は実践についての課題である。修士論文で提案した授業はすべて構想の域を出ないものである。これは実践によって実証していく必要がある。しかもより多くの学習者を対象とした実践を行う必要がある。教師の名人芸と、いわゆるセンスのいい学習者によって授業が偶然効果的に行われたというのでは検証できたとはいえない。誰が誰に対して授業を実施しても完全に同じ成果が得られるということはあり得ないだろうが、それでもより多くの教師が、より多くの学習者に対して意義のある授業ができるようにしていく必要がある。

おわりに

大学院に籍を置くというのは、予備校に通うのと似ている。大学受験に失敗して自宅浪人してもなかなか受験勉強が捗らないことが多く、予備校で一定時間を強制的に受験勉強に割り当ててしまったほうが効率的に勉強ができる。発表者は以前から国語教育に関心があり独学でいろいろと学んできたが、大学院に入学してから身につけて知識量はそれまでに身につけた知識の量とは比べものにならないほど大きい。修士の学位や専修免許状も大切ではあるが、それ以上にここで集中して学んだことがこれからの教師生活にとって大切であると考えている。また、学会に参加し発表することで、自分のような研究に関心を寄せてくださる方が少なからずいることに気づいた。研究そのものは先述の通り課題が多く残されている。しかし、1つだけはっきりとこの合同発表会の場で報告できることがある。それは、発表者の言語教師としてのキャリアのなかで、国語教育の研究して本当によかったということである。