応用言語学としての受験英語③
言語習得と記号としての文法
言語習得のメカニズムと文法体系
言語習得は言語形式と意味/機能とのマッピングであると捉えられる。この考え方は決して目新しいものではない。ソシュールの理論を概観するなかで丸山(1981: 83)は、ラングについて「母国語であれば幼年期に、第二言語であればもっとのちに個人の頭脳に作られる心的な構造であって、人々はこれによって自己の生体験を分析し、発話の際に必要な選択と結合を行うことが可能になる」と述べ、「音声の組み合わせ方、語の作り方、語同士の結びつき、語の持つ意味領域等々には一定の規則があり、この規則の総体がラングであって、これはいわば超個人的な制度であり条件である」と続けている。
ソシュールの理論からH. PalmerのOral Methodが思い出されるかもしれない。このメソッドの特徴は対象言語の意味にも学習者の意識を向けさせるところにある。これは近年のSLAで提唱されているFocus on Formよりも、言語知識への意識化の度合いが大きい。また文法訳読法のように文法指導を完全に明示的に行う場合以外でも、教師が文法知識を持つことの重要性を示唆している点も重要である。
パーマーの再評価は、必ずしも母語の介在を否定するものではない。田中・阿部(1988-89)が指摘するように、言語形式と意味/機能とのマッピングは目標言語のなかで直接行われるのではなく、その過程で母語での対応関係を探ること(interlingual mapping)が行われるからである。したがって我々が持つべき学習英文法の体系は母語である日本語の文法との対応を考慮したものでなければならないということが容易に想像できる。
シニフィアンとシニフィエ
ソシュール(1940)は言語記号が表現と意味を同時に備えた二重の存在であると考え、前者をシニフィアン(signifiant)、後者をシニフィエ(signifié)と名付けた。シニフィアンとシニフィエは相互依存的であり、お互いの存在と前提としなければ存在し得ない。ソシュールは言語学の対象は言語記号であって、分離されたシニフィエ、シニフィアンではないと主張した。
バルト(1971)はシニフィアンはシニフィエの仲介者であるに過ぎないと指摘している。人間を取り巻く世界は言語記号によって分節化されるが、分節化された「意味」(=シニフィエ)にはシニフィアンを通してでしか到達することはできないのである。仮に同じシニフィエの仲介をする場合でも唯一絶対的なシニフィアンによって仲介されなければならないというものではないとバルトは指摘する。これが言語記号の恣意性と呼ばれるものである。
「記号」と学習文法
言語を「記号」と捉えた場合、学習文法にとって次のような点に留意すべきであるということが改めて浮かび上がってくる。
- 言語は形式と意味によって成り立っていること。
- 言語の形式は意味をとらえる手段であること。
- 同じ内容を表す場合でも言語によって表現が異なること。
- 外部世界の分節の仕方が言語によって異なる可能性があること。
1.は形態統語論と意味論の両方からの取り組みが必要であることを、2.は形態統語的知識の学習の重要性と限界を、3.は母語と学習対象言語の差異を知ることの重要性を、4.は母語を介して対象言語を学ぶ限界を、改めて気付かせてくれる。なお、ソシュールやバルトの言うシニフィアンとは第一義的には音韻であるが、ここでは生成文法で言うPFに送られるS構造のようなものを想定して論じている。
記号現象のモデル
池上(1992)は、典型的な記号現象として伝達のモデルを示している。そこでは「符号化」(encoding)と「解読」(decoding)という2つの過程によって伝達が説明されている。「符号化」では、「発信者」(sender)が「コード」(code)や「場面」(situation)を参照しながら「話題内容」(topic)をメッセージ(message)にする。「解読」では、何らかの「経路」(channel)によって到着した「メッセージ」を「コード」(code)や「場面」(situation)を参照しながら「話題内容」(topic)に再構成する。伝達が理想的に行われた場合は「発信者」の「話題内容」と「受信者」が再構成した「話題内容」が同一のものになるはずである。
しかし時枝(1955)はこうした伝達の成立ということに対して極めて悲観的な立場をとっている。時枝(1941)は言語の意味を言語主体による具体的事物などの把握の仕方に求めており、システムとしてのラング(=コード)を認めていない。時枝のこの考え方は、外国語として英語を学んでいく上では有効である。なぜならば、仮に「コード」の存在を認めたとしても、少なくとも学習者の「コード」とネイティブの「コード」は同一ではないからである。
言語における「コード」
池上(1992)によれば、言語のコードは「辞書部門」(lexicon)と「文法部門」(grammar)を中心として成り立っているという。言語という記号体系のなかで記号としてきのうしうる単位を記録した部分が「辞書部門」で、その記号間の結合関係を規定した部分が「文法部門」である。エーコ(1996:85)が「コードはコミュニケーションの営みにおいて具体的な形で現れるものとしての記号を生成する規則を決めている」という言い方をし、Givón(1993)がGrammar as a communicative codeという言い方をしているのも、こうした考え方が根底にあると思われる。
言語における「場面」
池上(1992)は、言語では「メッセージ」の解釈は「コード」によって保証されるが、「場面」の関与が完全に排除されるわけではないと指摘する。
時枝(1938)は「場面」の概念を池上よりも広く捉えていて、位置、情景、主体の態度、主体の気分、主体の感情が含まれると指摘する。時枝は言語過程は常に場面による制約を受けると主張する。この考え方は後の「コミュニケーション能力」の概念にも通じるところである。
形式と意味
エーコ(1996:12)は人間のコミュニケーションについて次のように述べている。
「すべての人間に対するコミュニケーション行為、もしくは人間間のコミュニケーション行為は、意味作用の体系をその必要条件として要請するものである。」
また、Jespersen(1924:39-40)による次の指摘も重要である。
In grammar, too, we may start either from without or from within; in the first part (O→I) we take a form as given and then inquire into its meaning or function; in the second part(I→O) we invert the process and take the meaning or function and ask how that is expressed in form.
Jespersenは、話し手の言語過程を概念(notion)を統語(syntax)によって形式(form)として表現する過程、聴き手の言語過程を形式から統語によって概念を得る過程としてモデル化している。これはコミュニケーション論や記号論におけるモデルともほぼ重なり合い、また意味や概念の扱いに違いがあるものの、時枝(1937)の言語過程モデルもこれとほぼ同じ過程を示している。
このような形式と意味の関係は、統語論と意味論の関係と関連してくる。学習文法は言語学習・言語運用を研究対象とする応用言語学の一部を成すものであるから、研究対象の異なる理論言語学における統語論と意味論の関係をそのまま受け入れることはできない。
生成文法では、文法を言語知識に関する計算メカニズムと捉えており、記憶や視覚などの他の認知システムとは独立したモジュールとして脳内に存在するという立場に立つ。この計算メカニズムは音声表示(phonetic representation)や意味表示(semantic representation)の対を構成するものである。したがって文法のなかでも統語部門・音韻部門・意味部門などが独立したモジュールとなっているのである。
モジュール(module)とは独自の機能と内部構造を持った構成単位である。生成文法において統語部門が独立したモジュールとなっているということは、統語形式が統語論だけで説明されることを意味する。これが自律的統語論たる所以であるが、こうした統語論モデルは先ほど見た言語運用やコミュニケーションのモデルとは本質的に異なるものである。生成文法では文法以外のモジュールとの連携によって言語運用が実現すると考えるからである。
したがって仮に脳内で生成文法が主張するようなモジュールが存在しているとしても、生成文法は統語形式とその形式が表す意味との対応を必ずしも明らかにするものではないため、生成文法だけで学習文法を構築することは不可能である。このため他の言語理論を参照しつつ、統語論と意味論の関係を学習文法独自に捉えていく必要がある。
参考文献
- バルト、R. (1971)「記号学の原理」(『零度のエクリチュール』に併収)みすず書房.
- エーコ, U. (1996)『記号論Ⅰ』池上嘉彦訳 岩波書店.
- 池上嘉彦(1992)『詩学と文化記号論』講談社.
- Jespersen, O. (1924) Philosophy of Grammar. Chicago: The University of Chicago Press.
- 丸山圭三郎(1981)『ソシュールの思想』岩波書店.
- ソシュール、F. de (1940)『一般言語学講義』小林英夫訳 岩波書店.
- 時枝誠記(1937)「心的過程としての言語本質観」『文學』5(6) pp.1-30.
- 時枝誠記(1938)「言語における場面の制約について」『國語と國文學』15(5) pp.1-12.
- 時枝誠記(1941)『國語學原論』岩波書店.
- 時枝誠記(1955)『國語學原論続篇』岩波書店.
- 作者: ロラン・バルト,渡辺淳,沢村昂一
- 出版社/メーカー: みすず書房
- 発売日: 1971/07
- メディア: 単行本
- クリック: 8回
- この商品を含むブログ (18件) を見る
- 作者: U.エーコ,池上嘉彦
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 1996/06/14
- メディア: 新書
- 購入: 2人 クリック: 2回
- この商品を含むブログ (8件) を見る
詩学と文化記号論―言語学からのパースペクティヴ (講談社学術文庫)
- 作者: 池上嘉彦
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 1992/11
- メディア: 文庫
- クリック: 12回
- この商品を含むブログ (5件) を見る
- 作者: イェスペルセン,安藤貞雄
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2006/05/16
- メディア: 文庫
- 購入: 5人 クリック: 33回
- この商品を含むブログ (12件) を見る
- 作者: イェスペルセン,Otto Jespersen,安藤貞雄
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2006/06/16
- メディア: 文庫
- 購入: 4人 クリック: 9回
- この商品を含むブログ (7件) を見る
- 作者: イェスペルセン,Otto Jespersen,安藤貞雄
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2006/07/20
- メディア: 文庫
- 購入: 3人 クリック: 9回
- この商品を含むブログ (8件) を見る
- 作者: Otto Jespersen
- 出版社/メーカー: University Of Chicago Press
- 発売日: 1992/11/15
- メディア: ペーパーバック
- この商品を含むブログ (5件) を見る
- 作者: 丸山圭三郎
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 1981/07/15
- メディア: 単行本
- 購入: 4人 クリック: 36回
- この商品を含むブログ (21件) を見る
- 作者: フェルディナン・ド・ソシュール,小林英夫
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 1972/12/22
- メディア: 単行本
- 購入: 1人 クリック: 35回
- この商品を含むブログ (48件) を見る
Course in General Linguistics (Open Court Classics)
- 作者: Ferdinand la Saussure
- 出版社/メーカー: Open Court
- 発売日: 1998/12/30
- メディア: ペーパーバック
- クリック: 56回
- この商品を含むブログ (3件) を見る