持田哲郎(言語教師@文法能力開発)のブログ

大学受験指導を含む文法教育・言語技術教育について書き綴っています。

言語教育におけるtranslationとその周辺(その1)

訳読を見直す

まず、訳読の定義としては、「英語の文章を読み、それもかなり難しい文章を読んで、日本語に訳していく学習方法」(山岡2009b: 3)を採用することにする。山岡の訳読の定義は比較的広い意味を持っており、山岡自身も「訳読とは要するに、学習目的の翻訳である。外国語で書かれた著作を読み、翻訳していくよう求める教育法が訳読なのである。翻訳を手段とする教育の方法だといえる」(山岡2010: 2)、また「英語もどきではなく正しい英語の文章を、日本語もどきではなく正しい日本語で訳していくべきだ。母語で外国語を学ぶのが訳読の核心なのだから」(山岡2009b: 3)と述べている。そして山岡は外国語教育について次のような提案をしている。

いまの時代に必要な外国語力は、海外旅行で恥をかかないようにする程度ではない。そして、外国語で学んだ高度な内容を母語で消化したうえで、外国語で発信できるようにしなければならない。その場合、外国語を母語で学ぶ間接法が重要になる。翻訳はそもそも間接法なので、翻訳という観点にたてば、間接法の優れた外国語教育法ができるかもしれない。(山岡2009a: 3)

これは従来の学校英語教育で行われていた訳読とは異なるものである。山岡は従来の学校教育における訳読を「英語を英文和訳調などの疑似日本語に機械的に置き換えるようにすることを目標にしている」(山岡2001: 155)と批判している。山岡が目指したのは「「永遠のジャック&ベティ」風でない正真正銘の日本語で英語を学べるようにする」(山岡2009a: 3)ことであった。従来の訳読に対する問題点は川本(1997)にもみられる。

受験用の翻訳に必要なのは、ごく表面的な意味の読み取りだけで、より深い意味の了解、読者個人が身をもってする了解は、どこかへ棚上げされているのです。端的にいうと、訳読とは、英語テクスト=記号表現1を、そのまま日本語のテクスト=記号表現2に移し変えるだけで、その意味=記号内容1にはほとんどかかわることのない、いわば素通りの過程です。(川本1997: ii)

いわゆる、縦のものを横にするのではない、英文なり日本文なりを深く理解し、その理解内容を日本文なり、英文なりで表現していくtranslationを通じて、日本語や英語をより深く学ぶ。そうしたことがこれからの言語教育において求められるのではないだろうか。
これは英語教育からの視点で有効だとっているのではなく、国語教育からみても有効である。いかに囲繞する清水(1959)の指摘は的を射たものであるといえる。

私たちは日本語に慣れきっている。幼い時から、私たちは日本語を聞き、日本語を話し、日本語で考えて来た。私たちにとって、日本語は空気のようなもので、日本語が上手とか下手とかいうのさえ滑稽なほど、私たちはみな日本語の達人のつもりでいる。いや、そんなことを更めて考えないくらい、私たちはみな日本語というものを意識していない。これは当たり前のことである。しかし、その日本語で文章を書くという時は、この日本語への慣れを捨てなければならない。日本語というものが意識されないのでは駄目である。話したり、聞いたりしている間はそれでよいが、文章を書くという段になると、日本語をはっきりと客体として意識しなければならない。自分と日本語との融合関係を脱出して、日本語を自分の外の客体として意識せねば、これを道具として文章を書くことは出来ない。文章を書くというには、日本語を外国語として取り扱わなければならない。(清水1959: 81)

さらに清水は次のように続けている。

日本語を自分の外部の客体として掴むチャンスは、普通は、私たちが外国語を勉強する時に訪れるものである。全く外国語と縁がなかったら、日本語が言語そのものということになり、日本語が日本語として自覚される折がないであろう。(清水1959: 81)

山岡も清水を引用したうえで、「翻訳の場合にはそれにとどまらない。外国語の世界と日本語の世界の間に微妙ではあるが、大きな違いがあることを、つねに意識しておかなければならない」(山岡2001: 144)と補足している。山岡はまた「日本語を書く技術が高ければ、それに見合った水準まで、外国語を読む技術と内容を理解する技術も高まっていくのが通常である。日本語を書く技術こそが、翻訳の技術の根幹なのだ」(山岡2001: 141)とも述べており、ここに訳読を接点とした国語教育と英語教育の連携・融合の有効性をみてとることができる。問題は山岡のいう日英語の間にある微妙であるが大きな違いをどう学ぶかである。次の平子(1999)の指摘も興味深い。

日本語を英文法の用語で説明する人は、日本語を英語の範疇に引き入れて両言語の違いを無視している。それでは日本語の特質が見失われてしまう。むろん英文法の知識が翻訳に有用ならばそれを利用してもよいが、その利用という意味でも、いったんは両者の違いを確認しておきたいものである。高度な翻訳になると二つの言語の文法について、本質的な理解が必要となるからである。文の立て方が別になるのだという構え、「日本語ではこうだが英語ではどういう論理(構文)になるのか」と意識の切り替えをはかる構え、これが翻訳には不可欠である。(平子1999: 84)

そして、ここでの中途半端が許されないのは、山岡の次の記述から感じ取ることができよう。

翻訳にあたっては、外国語で情報を吸収する能力が通常より低下する。日本語の考え方、論理、感情、発想、言葉の世界が影響を与えるからだ。日本語で表現する能力も通常より低下する。外国語の考え方、論理、感情、発想、言葉の世界が影響を与えるからだ。この能力の低下をどこまで抑えられるかが、翻訳では勝負の分かれ目になる。能力の低下を抑えるには、外国語と日本語という二つの世界をうまく共存させる方法を学ばなければならない。日本語の世界に生きる人格と、外国語の世界に生きる人格との間で、意識的な二重人格状態を作りださなければならない。
そのためには、外国語を読む作業、日本語を書く作業に「意識的」にならなければならない。そしてとくに、考え方、論理、感情、発想、言葉のすべてにわたって、日本語と外国語に微妙な違いをつねに意識するようにしなければならない。(山岡2001: 155-156)

対処法はもちろん2通りある。ひとつは母語である日本語を極力排除して英語漬けになること。そしてもう一つは山岡が言うような日英語の違いを意識する学習である。日本語で生活し、英語を使うことが少ない日本語母語話者が英語を学ぶには、山岡の提案する方法を採るのが妥当である。

(続く)

参考文献