持田哲郎(言語教師@文法能力開発)のブログ

大学受験指導を含む文法教育・言語技術教育について書き綴っています。

言語教育におけるtranslationとその周辺(その2)

言語と思考

日本語と英語の違いを考えるにあたって、言語と思考の関係から切り込んでみることにしたい。まずは古典的だが中島(1949)を引用する。

言語は思考の必然的な流出ではなく、思想の伝達手段として、それも多かれ少なかれ不完全な手段として発達したものである。しかし一度言語ができあがると両者の連合は極めて緊密であるから、言語は思考に対し甚大な影響を及ぼすことになる。一言語に熟達すると思想と言語記号とはほとんど失敗なく相互に喚起し合ふ。思想が浮かべば言語記号も生じ(口に出さないまでも想像において)、又言語記号を聞いたり読んだりすれば思想も生じる。言語に熟達するとはこの密接な連合が習慣となることである。(中島1949: 2-3)

ソシュールの「ランガージュ」と「ラング」の影響を受けているものであろう。今となっては素朴な見立てかもしれないが、今でも直感的にうなずけるところも大きい。もう少し現代的な捉え方では、認知言語学、ないしは認知言語学の立場が参考になる。

言葉の意味は、主体の認知プロセスと密接にかかわっており、表層レベルに言語化される表現形式のちがいが、外部世界にたいする主体の把握の仕方、問題の状況にたいする解釈モードのちがいを反映している。(山梨1995: 6)

山梨の言うこの「外部世界にたいする主体の把握の仕方」や「問題の状況にたいする解釈モード」の違いが個人レベルだけでなく、民族レベルもしくは母語話者全体のレベルでみられるならば、それが日本語と英語の違いとして現れることが考えられる。

レトリックの違い

次に日英語の違いの背景にある、レトリックの違いをみていく。文化の中でことばをどのように捉えているかが、言語体系の本質的な違いに何らかの影響を及ぼしている可能性が考えられる。理論言語学の文脈には似つかわしくない論点であるが、教育文法の関連領域としては一瞥しておく必要があるように思う。というのも、プラクティカルな問題意識として次の伊藤(1999)が指摘するようなものがあるからである。

日本人の英語の問題をつきつめていくと、日本語の問題に行き着きます。日本語が良い悪いでなく、日本語的発想で英文と英文をつなげて展開しても、英語的な論理で見ると意味が通じないということです。(伊藤1999: 7-8)

つまり、論理性に対する考え方が日本語と英語で異なり、その違いが日英語の文法・語法的な違いとして現れている可能性があるのである。これは中島(1987)の指摘とも重なる。

日本語の表現は英語などの西欧語にくらべると、論理的でないといわれる。もちろん、日本語でも論理的な思考を表現することはできるが、その場合はとかく翻訳調になりがちで、読みにくい文章になることが多い。慣用的な日本語の表現形式が英語の表現形式にくらべ、その構造が論理的でないと言うことはできる。(中島1987: 1)

そして中島はその背景に言及している。

西欧語の代表としての英語を取り上げ日本語と対照してみると、両者のあいだに大きな発想法のちがいが見られる。英語の背景をなす文化は西欧文化であり、それは古代ギリシアの理性主義を受け継いでいる。古代ギリシアにおいては弁証法が発達し、論理的な思考や雄弁術が錬磨された。この風はローマ時代から中世を経て今日に及んでいる。(中島1987: 1-2)

これをレトリカル・コミュニケーションの立場から捉えたのが岡部(1993)である。

西洋レトリックが目指すものは、公的なフォラムで弁舌を通して聞き手を説得することである。シンボルを戦略的に使い、聞き手の態度を形成・強化したり、変容させる姿が西洋の話し手の典型である。この意味で、西洋型のレトリックでは基本的には議論的・論理的な性格が強い。相手を説得するということは、独立した存在の話し手と聞き手が互いに対峙し、ことばのレトリックを通して対決することである。(岡部1993: 75)

岡場はさらにこう続けている。

西洋の説得型コミュニケーションはまた、話し手と聞き手の間の意見の相違を明確にすることを目指す対話的・弁証法的なダイアログである。この形式は話し手・聞き手の間に基本的な同質性の前提がないような西洋のレトリック状況で、両者の意見・態度の不一致を解消するには効果的な手段である。説得型のダイアログが有効に働く低コンテクスト度の文化では、デジタル型の言語(バーバル)技術が尊重され、問題を論理的に分析してその解決法を理路整然と相手に伝達する能力が求められている。ダイアログが発達した社会はまた互いにアイディアを交換して、それぞれの社会の潜在的可能性を最大限に実現しようとする「探求の精神」に満ちた社会である。(岡部1993: 75)

つまり、説得の必要性によって言語記号の効果的、論理的な使用が求められるに至ったということであり。当然これは英語にも当てはまるものである。これに対する日本人のコミュニケーションについて、まずは中島の指摘から取り上げる。

日本は、ほとんど単一民族・同一文化・同一言語の国で、敗戦直後にアメリカ軍に占領された数年間を除き、民族として外国人に接触することも少なく、極東の島国の閉ざされた社会で暮らしてきた。意思の疎通に多弁を必要とせず、「以心伝心」とか「腹芸」の可能な社会を作ってきた。(中島1987: 2)

続いて岡部の言説を、対応する箇所をまとめて引用する。

日本人の生活の中では、レトリック戦略を使って自分の主張・戦略を押し立てて、相手を意識的に説得しなければならないという考えははなはだ希薄である。1人ひとりの考え方・感情・欲求は皆異なることを前提とした西洋型の異質社会と違って、日本では社会の皆が同じ考え方・感じ方をするはずだとみる同質性の高い文化だからであろう。このような社会では、公的というよりは私的な全会一致を模索しながら、相手を説得するというよりは相手の感情・情緒に配慮して人間関係での調和を確立したり維持することがレトリックの機能である。(岡部1993: 75)
西洋のレトリックが論理的・議論的であるのに対して、日本のそれは適応的・直感的であるといえよう。西洋レトリックの説得の対立するものとして、日本のレトリックでは感得がカギ概念である。(岡部1993: 75)
相手の考え方・感情を尊重して、人間関係に配慮する同質性を基盤にした高コンテクスト度の日本では、説得型のダイアログと好対照をなす感得型のモノログが主要なコミュニケーション形式である。表面的には2人が「対話」をしているように見える場合でも、その内容は概して「独話」のモノログが交互に発せられるのが日本人のコミュニケーションである。両者の違いが露わにならないようにと配慮するあまり、西洋型のダイアログにみられるような両者の相違を徹底的に論じ合い意見を戦わせるといったことはほとんど見られない。(岡部1993: 76)
人間関係の調和の上に立った感得をカギ概念とする日本のレトリックでは、話し手が自ら主体的にメッセージを構成して提示するのではなく、コミュニケーションをしている過程で時には聞き手と一緒になって欠けた部分を補い合いながら、聞き手を巻き込んで結論まで到達するという綜合型・統合型の構成法がよく採られる。(岡部1993: 78)

中島も「日本人にとって話し言葉は日常生活上の会話にすぎず、西欧的な「対話」というものを知らない」(中島1987: 2-3)と述べている。まとめると、西洋と日本では言語使用に際しての「相手意識」に差があり、それが言語の実際の使用に影響しているということになる。さらに中島は日本語について「和歌・物語・随筆などの言葉として洗練されてきた。情緒的表現には優れていても、論理的構成には弱いところがある」(中島1987: 3)とも指摘しており、西洋と日本で「主に何のために言語を用いてきたか」が歴史的に異なり、その違いが言語の発達に少なからず影響を及ぼしていると考えることができよう。

(続く)

参考文献

  • 伊藤、ケリー(1999)『書きたいことが書けるライティング術』研究社
  • 中島文雄(1949)『文法の原理』研究社出版
  • 中島文雄(1987)『日本語の構造−英語との対比−』岩波書店
  • 岡部朗一(1993)「日本のレトリック」橋本満弘・石井敏『日本人のコミュニケーション』桐原書店
  • 山梨正明(1995)『認知文法論』ひつじ書房