持田哲郎(言語教師@文法能力開発)のブログ

大学受験指導を含む文法教育・言語技術教育について書き綴っています。

言語教育におけるtranslationとその周辺(その3)

言語文化と文構造

デジタル型の言語技術が尊重される低コンテクスト文化で用いられる英語と、相手の考え・感情を尊重する高コンテクスト文化で用いられる日本語とでは、文の構造にも違いが見られる。これは単にSVO型かSOV型かという語順の違いに留まらない。水谷(1985)は英語を「事実指向型」の言語、日本語を「立場指向型」の言語であるとし、これが日本語母語話者が英語を外国語として学ぶ際のつまずきの原因となると述べている。また池上(1981)は、言語類型論の立場から言語を次ように2つに類型化している。

ある出来事が表現される場合、そこから何らかの個体(典型的には動作の主体)を取り出し、それに焦点を当てて表現する場合と、そのような個体を特に取り出すことなく、出来事全体として捉えて表現する場合とがある(池上1981: 94)

池上は前者を「〈モノ〉指向的」、後者を「〈コト〉指向的」と呼び、さらにこう続けている。

ある出来事が言語的に表現される場合、(A)その出来事の中から一個のアイデンティティを保っていると認められる項を析出し、それに焦点を当てて表現するやり方と、(B)そのような項を想定しないで、出来事を全体として表現するやり方がある(池上1981: 98)

(A)が〈モノ〉指向的で、(B)が〈コト〉指向的である。そして池上は英語は前者に属し、日本語は後者に属すとしている。安西(1983)は池上のの言説を敷衍し、日英語の違いを次のように捉えている。

英語は情況を捉えるのに、〈もの〉の動作性に注目して、因果律的に解析し、概念化してゆく傾向が強いのにたいして、日本語は情況をまるごと〈こと〉として捉え、その〈こと〉と人間とのかかわり方を、人間の視点に密着して捉える傾向が強い。(安西1983: 105)

こうしてみると、英語は〈モノ〉指向的であるがゆえに事実指向的であり、日本語は〈コト〉指向的であるがゆえに立場指向的であると考えることができる。さらに、池上(2009)は認知言語学の立場から次のように述べている。

〈起因〉に拘わって〈事態把握〉をするのが英語話者による一つの〈好まれる言い回し〉だとしますと、ちょうどそれとは対照的に、〈起因〉を考慮外に置いて出来事そのものの〈出来(しゅったい)〉に焦点を当てて〈事態把握〉をするというのは、日本語話者における一つの〈好まれる言い回し〉として措定することができるかも知れません。(池上2009: 22)

池上は日本語の事態把握の仕方を国語学で伝統的に用いられてきた「自発」の概念に相当すると述べている。この考え方は古くからあり、佐久間(1995)にも見られる。

日本語ではとかく物事が「おのづから然る」やうに表現しようとする傾を示すのに対して、英語などでは、「何者かがしかする」やうに、さらには「何者かにさうさせられる」かのやうに表現しようとする傾を見せてゐるといふことが出来ませう。(佐久間1995: 214)

事態を起因に拘って因果律に分析する英語は、事態把握の仕方が、SVOという形式に反映されている。そして四宮が言うように「このパタンでこの世界で起こっている現象や人間の行動、状態のほとんどすべてを説明できる」(四宮1999: 11)のである。そして、このSVOのSには無生物主語も比較的自由に取れるのである。

(続く)

参考文献