持田哲郎(言語教師@文法能力開発)のブログ

大学受験指導を含む文法教育・言語技術教育について書き綴っています。

私の立場(その4)

意外に抜け落ちている視点

日本語を母語とする英語学習者のための英文法という位置づけで教育文法を考えた場合、当然ながら、学習者の母語は日本語でEFL環境で英語を学ぶという前提に立つ。しかし、ここには意外に見落とされている視点がある。それは、日英語の文法知識の習得の過程についての認識についてである。

生れ落ちるから日夕親しんでいる自国語なら、別に文法などやらなくても相応に使いこなすこともできよう。しかし他国語を学ぶのに母国語に熟するのと同じやり方で行けというのは、その国に生れ変れというに等しく不可能である。(山崎1971: iii)

山崎のこの言説は1921年のものであるが、すでにEFL環境という前提に立った英語学習を考えていたことがうかがえる。

編者は文法の知識をただちに英作文、英文解釈の実用方面に結びつけ、同時に学習者の理解記憶に便利な組織によって英文法を説いてみようと思い、本書の稿を起こしたのである。(山崎1971: iii)

ここから分かるのは、山崎が英語の読み書きに応用できる文法知識を記述し、学習者に提示しようとしていたことである。しかし、山崎が先に述べた母国語への言及は、話し言葉(音声言語)の文法知識を指しているものと思われる。問題は、母語話者は母語の書記言語の文法知識も無意識的、非明示的に獲得しているのかどうかである。

階層的言語観と言語教育(修士論文草稿より)

金水(2010)は「階層的言語観」の立場から、言語を使用域によって〈子供の言語〉〈地域の言語〉〈広域言語〉〈グローバルな言語〉の階層で捉えている。人間が生まれてすぐ、いわば本能的に獲得するのは〈子供の言語〉であり、成長とともに地域社会の構成員との相互作用によって発達させていくと〈地域の言語〉となる。〈子供の言語〉と〈地域の言語〉は音声言語が中心で、「私的空間(=相互了解圏)内において通用する「私的話し言葉」」(日本学術会議2010: 11)と捉えることもできる。〈広域言語〉は、法律、行政、産業、技術、学術、文芸等高度に知的な営為を担う言語である。ここで中核をなすのは書記言語であり、音声言語はこれに従属する。これらは、「公共的言語」(日本学術会議2010: 11)に通じる概念である。金水は〈広域言語〉が〈グローバルな言語〉とのインターフェースとなって高度に知的な語彙を生み出す場となっていると述べているが、これは外国語から日本語に翻訳される場合に主に〈広域言語〉に翻訳されることを意味する。〈グローバルな言語〉は、現在では英語がその地位を占めるが、あくまでも書記言語を中核とする英語である。
階層的言語観を言語習得や言語教育の視点から見ていこう。〈子供の言語〉は「人間が生まれて最初に獲得する言語」(金水2010: 3)であり、「言語教育を受けようが受けまいが、生後の一定の期間に一定の言語経験を取り込めば、だれでも獲得可能である」(大津1996: 387)。こうして、子どもは就学年齢に達するまでに、一応の話しことばを身につける(石橋1967)。これが〈地域の言語〉となっていくのである。難波(2008)は学校の国語科授業で行われる「国語科教育」に対して国語科以外での学びを「母語教育」と呼んでいる。〈子供の言語〉や〈地域の言語〉といった「私的話し言葉」は、難波のいう母語教育のなかで学び続けるものといえる。これに対して、〈広域言語〉のような「公共的言語」は、こうはいかない。読み書きの能力は、教えられ、学ぶことによってしか身につかない(金水2007)。日本学術会議(2010)は、自然に身につけた母語を土台としつつ、それを論理的な公共的言語(=広域言語)へと育てていくことが公教育の目的でなければならないと主張している。難波は「国語科教育」について「特に学校の国語科で意図的に行われるもの」(難波2008: 192)と述べている。書記言語を中心とする公共的言語は学校の国語科で意図的に教えられ、学ぶものであるといえる。書記言語の教育は、読むことの教育と書くことの教育からなる。そのなかでも推敲により的確な表現を追求し、思考の発展を促すという点で、書くことの教育が重要であるといえる(西尾1967)。

日本語文法の意識化を足がかりとした英文法学習

書記言語としての英語の文法を学ぶには、書記言語としての日本語の文法も身につけているほうが、日本語母語話者の学習者には好都合であろう。

外国語教育は母国語教育と密接に協力して行わねばならず、広く言語教育の一分野として行われねばならない。しかも母国語を豊かに駆使する能力を持つものは外国語学習の到達度は早く、高い(寺島1986: 9)

寺島の指摘のように、英語教育と国語教育との協力・連携が必要であるというのが私の立場である。同様の立場を取るものに大津(2009)などがある。ここで国語教育側でどのような役割を果たすべきかは私の修士論文で明らかにしたいが、英語教育側からのアプローチとしては、持田(2011)にその一端を示した。また、最近の私の実践が阿部・持田(2005)よりも日本語の仕組みを学習者に意識させ、日英語の相違点と類似点への気づきを促せるように仕組むようになっている。このあたりについては後日改めて示したいと思う。

参考文献

  • 阿部一・持田哲郎(2005)『実践コミュニケーション英文法』三修社
  • 石橋幸太郎(1967)「言語教育学の構想」野地潤家・垣田直巳・松元寛『言語教育の本質と目的』(言語教育学叢書第1期1巻)文化評論出版
  • 金水敏(2007)「言と文の日本語史」『文学』8(6) pp.2-13
  • 金水敏(2010)「日本語の将来を考える視点−言語資源論−」『日本語の将来』日本学術会議主催公開講演会 pp.2-7
  • 持田哲郎(2011)「国語教育と英語教育の連携に向けて−文法教育を中心に−」町田守弘(編著)『明日の授業をどう創るか−学習者の「いま、ここ」を見つめる国語教育』三省堂
  • 難波博孝(2008)「国語教育とメタ認知」『現代のエスプリ』497, pp.192-201
  • 日本学術会議(2010)「提言 言語・文学分野の展望−人間の営みと言語・文学研究の役割−」日本の展望−学術からの提言2010(pdfファイル:2010年9月27日ダウンロード)
  • 西尾実(1967)「言語教育学の発見」野地潤家・垣田直巳・松元寛『言語教育の本質と目的』(言語教育学叢書第1期1巻)文化評論出版
  • 大津由紀雄(1996)「言語教育」亀井孝河野六郎千野栄一(編著)『言語学大辞典』第6巻術語編 三省堂
  • 大津由紀雄(2009)「国語教育と英語教育−言語教育の実現に向けて」森山卓郎(編著)『国語からはじめる外国語活動』慶應義塾大学出版会
  • 寺島隆吉(1986)『英語にとって学力とは何か』三友社出版
  • 山崎貞(1971)『新自修英文典』(第5訂版 毛利可信増訂)研究社出版