持田哲郎(言語教師@文法能力開発)のブログ

大学受験指導を含む文法教育・言語技術教育について書き綴っています。

私の英文法指導歴(その3)

はじめに

ひき続き、id:anfieldroadさんの「『英語教育ブログ』みんなで書けば怖くない!」の第2回「英文法指導」に参加するために書いています。

受験英語」から距離を置いて考えたこと

英和辞典の執筆や校閲に携わる機会を得て意識したのは、日本語を母語とする学習者がどこで躓き、どこで間違えるかということでした。この背後にあるものとして言語転移について考えざるを得なくなりました。公務員試験の講座の講師という仕事は1999年から始めていたのですが、途中から英語関係の科目だけでなく、現代文や教養論文などの講座を担当することも出てきました。そこで思ったことは月並みながら「英語以前に日本語をどうにかしなければ」ということでした。さらに、英語と日本語の違いのようなものは、翻訳の学習を通じても強く意識するようになりました。そして、特に言語の細かいところに関わる仕事をしている人でもないかぎり、日本語について意識するコトはないのではないかと考えるようになりました。こうして母語である日本語の知識や日本語の運用能力を英語などの外国語学習の基盤として、教師が強く意識すべきではないかと考えるようになったわけです。

英語教師の国語教育手習いで気づいたこと

そんなわけで国語教育について学ぼうと今の大学院に入りました。そこで気づいたのは、国語教育の研究者も国語教師も、日本語学の知識に乏しく、日本語の分析が不得手である場合が多いということです。母語一言語だけに焦点を当てている視野の狭さがその原因かもしれません。このため、国語教師が日本語という言語そのものに意識を向けることの必要性を私が提案していく必要性を感じております。そのことが、日本語の運用のみならず、外国語学習の基盤の形成にも寄与すると考えるからです。私自身は、2009年に本格的に復帰した予備校の教壇で今まで以上に日本語との対比を生徒に意識させるようにしています。生成文法にせよ、認知言語学にせよ、理論言語学の知見はその意識化に貢献するものと考えています。とかく、英語教師は日本語と英語は違うから英語で考えろと言い放ちがちですが、どこがどう違うのかを学習者に気づかせてあげることが大切なのではないかと考えています。

おわりに

どこで具体的に何を教えてきたかということよりも、私がいつ、何を思ってきたのかということを中心にざっくりと書き綴ってきました。先月から今月にかけて、ミッションステートメントの再提示のような形でブログを書かせていただきました。今後も140語で収まらないつぶやきや専門的且つ断片的思考の一端を書き綴っていきます。