第3回町田研究室修了生研究会発表資料
2013年7月20日に研究室のOBOGによる研究会で発表しましたので、ハンドアウトの本文を掲載いたします。
「グローバル化」と国語教育・英語教育
教育再生実行会議の提言
昨年末に政権が交代して以来、「成長戦略」という言葉を頻繁に耳にするようになった。教育においても例外ではなく、いわゆるグローバル人材の育成を柱とした教育再生実行会議(2013)が明らかになった。ここには「大学入試や卒業認定におけるTOEFL等の外部検定試験の活用」(教育再生実行会議2013: 3)と述べられている。大学入試が変われば中等教育のあり方も変わってくると思われがちであるが、高等学校卒業者に占める大学進学率が50%程度で推移しており、その半数程度が一般入試を経て進学する現状では、大学入試の影響を受ける高校生は全体の4分の1程度にすぎない。このため提言が実行に移された場合に高等学校の現場でTOEFL対策が必要になるのは一部に留まるという見方もできる。
しかし、教育再生実行会議の提言では初等中等教育のあり方にも言及している。現在小学校で行われている「外国語活動」を、実施学年の早期化、指導時間増、教科化、専任教員配置等によって拡充していくと謳われている。また、提言は英語以外の教科にも触れられており、「日本人のアイデンティティを高め、日本文化を世界に発信するという意識をもってグローバル化に対応するため、初等中等教育及び高等教育を通じて、国語教育や我が国の伝統・文化についての理解を深める取り組みを充実する」(教育再生実行会議2013: 4)としている。
教育再生実行会議の提言から読みとれるのは、その提言の背後に明確な言語教育観に存在していないことである。外国語を学ぶ際に、学習者がいつからどのように学べばその外国語で何ができるようになるのか、そのときに母語がどのような役割を果たすのか、といったことを考慮しながら提言をまとめたとは到底思えないのである。なかでも母語の重要性については何ら顧みられていないように思われる。提言で謳われている国語教育の充実は日本人としてのアイデンティティを高めたり日本文化を世界に発信するためのものであるということは、必ずしも国語教育をことばの教育として捉えているのではなく、むしろ文学を中心とした教育、あるいは文学について学ぶことを柱とする教育を志向しているようにも読みとれる。
母語と国語と外国語
人間は誰でも母語を持ち、これに加えて外国語などを学ぶことがある。実は、母語と外国語の隔たりは大きい。「母語」と似た語でしばしば混同されるものに「母国語」がある。この2つの概念の違いを捉えるには田中(1981)が参考になる。
母国語とは、母国のことば、すなわち国語に母のイメージを乗せた煽情的でいかがわしい造語である。母語は、いかなる政治的環境からも切りはなし、ただひたすらに、ことばの伝えてである母とその受け手である子供との関係でとらえたところに、この語の存在意義がある。母語にとって、それがある国家に属しているか否かは関係がないのに、母国語すなわち母国のことばは、政治以前の関係である母にではなく国家に結びついている。(田中1981: 41)
田中が「母語」という語をことばの伝え手である母と受け手である子の関係で捉えたところに存在意義を見出しているとおり、母語とは「赤ちゃんが生後しばらくの間、耳にしたり、(手話の場合は)目にしたりしているうちに自然に身についた言語」(大津2013b: 55)を指す。金水(2010)はこの母語のことを〈子供の言語〉と名づけ、子どもが成長とともに地域社会に同化していく過程で発達した言語を〈地域の言語〉と呼んでいる。また、日本学術会議(2010)はこのような私的空間(=相互了解圏)内において通用する言語を「私的話し言葉」と呼んでいる。
これに対して「母国語」は国家と結びついた概念である。「母国語」と同様に「国語」もまた国家と結びついた概念であり、この2つの語はほぼ同義と考えてよい。田中(1981)は、「国語」とは日常のことばではなく、近代日本国家の誕生とは切りはなせない文化政策上の概念であることを強調している。また、時枝(1940)は国語教育の対象としての国語について、次のように述べている。
国語教育の内容としての国語について見ても、それは日本語全体を指すのではなく、日本国の公用語としての日本語、あるいは標準語としての、または標準的な言語として考へられている日本語を意味するものであつて、日本語の中の方言、または訛語隠語のやうなものまでをも含めてゐるものではないことは明らかである。即ち、日本語の中で、特別の価値意識の対象になるもののみが、国語と称せられるのであつて、この場合の国語の概念の中には、多分に国家の観念が含まれている。(時枝1940: 3-4)*1
時枝の言説は70年以上前のものであるが、現在でも基本的には同じことがいえるのではないだろうか。中央教育審議会の2008年の答申では、「小学校においては日常生活に必要な国語の能力の基礎を、中学校においては社会生活に必要な国語の能力の基礎を、高等学校においては社会人として必要な国語の能力の基礎をそれぞれ確実に育成する」(中教審2008: 75)と述べられている。これによれば小学校段階は金水(2010)のいう〈地域の言語〉を育成する段階であるといえる。これに対して中学校、高等学校の段階になるともう少し高い水準の言語能力を身に付けることになる。金水は〈地域の言語〉の上に〈広域言語〉という階層を設けている。これは「法律、行政、産業、技術、学術、文芸等高度に知的な営為を担う言語」(金水2010: 3)であり、通常は高等教育によって身につけるものとされているが、その基礎にあたるところまでを育成することが、中等教育段階の国語教育に科せられているといえる。これは「論理に耐えうる「公共的言語」」(日本学術会議2010: 11)ということもできよう。こうしたことから、日本語社会に生まれて自然に身につけた母語を社会生活で求められる公共的な言語に育てていくことが国語教育の役割であると考えることができる。
ここで外国語の話に移るのであるが、日本に暮らす多くの日本語母語話者にとって、現状では外国語はあくまでも外国語であるという事実をまずは指摘しておく必要がある。我々の多くは日本語社会で暮らしており、日本語さえ使えれば生活に不自由を感じることはない*2。金水は「〈地域の言語〉と連続的な言語によって高等教育の頂点まで自国語でまかなえる、あるいは世界の最先端の研究や文学作品の多くが翻訳で読めるという状況は、欧米を除けば世界でもまれである」(金水2010: 5)と述べている。また、ユネスコでは次のように母語が重要視されてる。
It is axiomatic that the best medium for teaching a child is his mother tongue. Psychologically, it is the system of meaningful signs that in his mind works automatically for expression and understanding. Sociologically, it is a means of identification among the member of the community to which he belongs. Educationally, he learns more quickly through it than through an unfamiliar linguistic medium.(UNESCO, 1953: 11)
子どもを教育するための最高の媒体はその子どもの母語である。心理学的には、母語は表現や理解の際に子どもの頭の中で自動的に働く有意義な記号体系である。社会学的には、母語はその子どもが属する共同体の構成員のあいだに一体感をもたらす手段である。教育的には、子どもは母語通して学ぶ方が他言語を媒体として学ぶよりも習得が早いのである。(持田訳)
このあとにさまざまな理由で母語での教育が行えない場合にも言及されているが、現在の日本では多くの学習者が母語で教育を受けることができる 。金水(2010)は〈子供の言語〉〈地域の言語〉〈広域言語〉の外側に〈グローバルな言語〉が存在すると述べている。日本に暮らす日本語母語話者は、母語=〈子供の言語〉を日常生活や国語教育を通じて〈広域言語〉のレベルにまで引き上げることができる。そこには日本語以外の言語が入り込む余地がないようにすら思える。英語は確かに国際共通語としての地位を確立してきており、金水のいう〈グローバルな言語〉である。この影響力はかつてのラテン語や文言中国語よりもはるかに大きいものである。第22期国語審議会答申「国際化時代に対応する日本語の在り方」(2000年12月8日)でも、「我が国においても、国際化時代における日本人の言語能力を総合的に考える視点に立って、母語としての日本語の教育と、外国語の教育を一層充実させていくことが望まれる」と英語学習の重要性を指摘している。しかし、中教審答申やそれを受けた学習指導要領でいわれる「日常生活」や「社会生活」がすべて日本語でまかなえる社会において、外国語の学習が重要だといっても日常会話ができることがその目標となることはありえない。金水(2010)は、〈広域言語〉が〈グローバルな言語〉とのインターフェースとなると述べている。つまり、中等教育から高等教育にかけて身につけた高度な日本語力を基盤として英語を身につけていくことが必要となってくるのである。もちろん、そのような高度な英語力が日本語母語話者のすべてに必要というわけではない。学校教育ではその基礎になる部分を学習する機会をできればよい。江利川(2013)は、英文法の明示的な指導、日英語の比較対照、英文解釈などを含んだ日本語母語話者は日本語社会で英語を学ぶのにふさわしい学習法を学校教育の中に確立すべきであると主張している。
国語教育と英語教育の連携
連携のレベルと連携の基盤
国語教育と英語教育の連携は、「公共的言語」の中心をなす論理的な表現・理解のための言語技術教育のレベルと、その根底にある日本語と英語という言語そのものに焦点を当てた「ことばの教育」のレベルで行うことが望ましい。これまで国語教育と英語教育が連携しようにも接点が見出せないでいた背景には、国語教育=文学教育、英語教育=語学教育という考え方がある。「国語教育は成熟した文化としての「国語」の習得という目標をもち、英語教育は初歩的な第二言語教育であるということでにわかに接点が求めにくい」(甲斐2013: 1)と述べられるのも、そうした考えが根強いためである。倉沢(1967)*3が示唆するように、文学教育は国語教育では中心になりえても、英語教育では少なくとも中等教育においては中心にはなりにくい。これに対して、言語技術であれば、例えば小学校で日本語で身につけたものを中学校で英語でできるようにするといった連携が可能である*4。国語教育と英語教育の接点は、なによりもその学習者が主に日本語母語話者であるというところにある(大津2013a)。日本における英語教育が日本語母語話者に対して行われるということは、学習者は母語である日本語を基盤として外国語である英語を学んでいくということである。このため、文法・語彙・音韻などのことばそのものに学習者が向き合うときに国語教育と英語教育が連携できればより効果的な学びが得られるという見通しが立つのである。
国語教育と英語教育の連携の基盤は、素朴な言い方をすれば日本語も英語も同じことばであるというところに求めることができる。もう少し正確な言い方をすれば、「ことばの普遍性」ということになろう。
ことばに普遍性が存在し、それを個別化したものが各個別言語なのであると考えると、国語教育と英語教育はそれぞれの直接の学習対象である日本語と英語が普遍性という共通の基盤で結ばれるということになる。(大津2009: 20)
「ことばに普遍性が存在し、それを個別化したものが各個別言語なのである」というのは、例えば日本語と英語ではどちらもことばである以上、共通するところが必ずあり、また同時に個別化したところは日本語と英語でそれぞれ異なっているということである。つまり、日本語と英語のどこが同じでどこが違うのかということを学習者が気づくことができれば、日本語も英語もより効果的に運用することができるということである。
連携のあり方を模索する:国語教育側からのアプローチ
外国語の学習には文法などの知識を身につけることが必要であるということは学習者にも受け入れられやすいが、母語として自然に身につけてきた言語の知識を身につけることの意義が受け入れられにくい。たしかに我々はふだん日本語を使って生活をしているが、その日本語の構造や機能を意識することはない。しかし、これに意識を向けることで、日本語をより効果的に運用することができるようになる(大津2013a)。これに関連する指摘は渡辺(2004)にも見られる。
生活のいとなみをすすめる言語活動から、抽象的な思考を発達させながら、しだいに言語活動の断片をとりだして、言語そのものに注意をむける。さらに、その知識を運用しながら、よりゆたかな言語活動をすすめることができるようになる。(渡辺2004: 5)
ここで明らかになってくることは、国語教育において日本語という言語そのものに焦点をあてるといっても、はじめから活用表を覚えさせたりするような作業をさせるのではなく、言語活動中心の単元学習であっても、ことばの学びは十分に可能であるということである。
語彙や表現に目を向けていくと、外来語の問題がある。津田(1990)は主に英語由来の外来語が氾濫する状況を「英語支配」と呼んでいる。これによって、「知らず知らずのうちに、日常のコミュニケーションは歪められ、意味のわからないことばにとり囲まれ、疎外感を抱いている人も少なくない」(津田1990: 10)というのである。外来語を多く含む文章に習熟することは、残念ながら学習者の日本語を〈地域の言語〉から〈広域言語〉に引き上げるためには必要なこととなっている。これをグループで漢語や和語に改めた文章にリライトする、ではなくて書き直すという活動も「ことばへの気づき」につながっていくのではないだろうか。
予備校の英文法授業における日英対照の取り組み
発表者がふだん予備校で英文法をどのように教えているのかということについて、背後にある考え方は持田(2011, 2013)にその一端をまとめた。ここでは授業形態などについても述べていくことにする。発表者の担当するクラスは40人から120人の生徒がおり、近年の予備校では1クラスあたりの生徒数は多い方である。このため講義形式の一斉授業が基本的な授業形態である。教材は予備校で制作したものを用いるが、その教材でどのように授業を展開するかはある程度講師の裁量に委ねられている。
たとえば、英語のThere is/are . . . という形式を導入する場合や受動態を導入する場合などに避けて通ることができないのが、日本語の「主題」という概念である。矢澤(2013)は「は」と「が」の区別を明示的に行うことについて消極的だが、日本語母語話者に一斉授業で英文法を講義する場合はそのような悠長なことも言っていられない。そこで授業で配布するプリントに説明を盛り込んだ。これは中島(1987)や柴谷(1978)に基づいた分析である。その上でThere is/are . . .を導入していくのである。
また、文系のクラスでは古典文法に言及することも少なくない。たとえば、It is a TV set that I want to buy.という文を「テレビこそ買はまほしけれ」という表現に対応づけることにより、「強調」ということがどういうことなのか腑に落ちる生徒も出てくるわけである。「『こそ』でなく『ぞ』や『なむ』ではダメか」などと質問が来ればしめたもので、英語のit is . . . thatも日本語の「こそ〜已然形」もかなり強い強調を表すことに気づくことになる。時制などの説明にも古典文法が有効な場合がある。「雨が降っている」はIt is raining.だが、「彼が来ている」はHe has come.である。現代語では同じ「テイル」だが古語では「雨降る」で「彼来たり」である。「たり=テイル」だと思っている生徒は英語の文法現象に触れることによって時の表現が整理されていくのである。
参考文献・参考資料
- UNESCO(1953) The Use of Vernacular Language in Education.
- 江利川春雄(2013)「「大学入試にTOEFL等」という人災から子どもを守るために」大津・江利川・斎藤・鳥飼『英語教育、迫り来る破綻』ひつじ書房
- 大津由紀雄(2009)「国語教育と英語教育−言語教育の実現に向けて」森山卓郎(編著)『国語からはじめる外国語活動』慶應義塾大学出版会
- 大津由紀雄(2013a)「「言語教育」の実現を目指して」『月刊国語教育研究』490, pp.4-9.
- 大津由紀雄(2013b)「英語教育政策はなぜ間違うのか:認知科学・学習科学の視点から」大津・江利川・斎藤・鳥飼『英語教育、迫り来る破綻』ひつじ書房
- 甲斐睦朗(2013)「国語教育と日本語教育、英語教育との連携」『月刊国語教育研究』490, p.1.
- 金水敏(2010)「日本語の将来を考える視点−言語資源論−」『日本語の将来』日本学術会議主催公開講演会 pp.2-7
- 教育再生実行会議(2013)「これからの大学教育等の在り方について(第三次提言)」(pdfファイル:2013年7月18日ダウンロード)
- 倉沢栄吉(1967)「言語教育の内容と方法−母国語教育の立場から−」野地潤家・垣田直巳・松元寛『言語教育の内容と方法』(言語教育学叢書第1期2巻)文化評論出版
- 柴谷方良(1978)『日本語の分析』大修館書店
- 田中克彦(1981)『ことばと国家』岩波書店
- 中央教育審議会(2008)「幼稚園、小学校、中学校、高等学校及び特別支援学校の学習指導要領等の改善について」(pdfファイル:2013年7月19日ダウンロード)
- 津田幸男(1990)『英語支配の構造』第三書館
- 時枝誠記(1940)『国語学史』岩波書店
- 中島文雄(1987)『日本語の構造−英語との対比−』岩波書店
- 日本学術会議(2010)「提言 言語・文学分野の展望−人間の営みと言語・文学研究の役割−」日本の展望−学術からの提言2010(pdfファイル:2010年9月27日ダウンロード)
- 持田哲郎(2011)「国語教育と英語教育の連携に向けて−文法教育を中心に−」町田守弘(編著)『明日の授業をどう創るか−学習者の「いま、ここ」を見つめる国語教育』三省堂
- 持田哲郎(2013)「日本語から教える英文法」『駿台教育フォーラム』29, pp.59-69.
- 矢澤真人(2013)「国語教育と日本語研究の新しいかかわり方をもとめて」『月刊国語教育研究』490, pp.10-15.
- 渡辺慎晤(2004)「英語教育と国語教育」『教育国語』4(7) pp.4-23
- 第22期国語審議会答申「国際社会における日本語の在り方」
http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/12/kokugo/toushin/001217.htm(2010年9月27日アクセス)
*1:引用に当たっては漢字を常用漢字のものに改めている。仮名遣いについては原文のままとした。
*2:ただし、外国籍の児童・生徒など、日本語を母語としない学習者が増えているのも事実であり、この対策もまた重要である。
*3:「文学教育といわれる国語科の内容は、外国語教育では、ふつう大学以上の仕事となり、言語と文学とは、別々の体系をもって別々に計画され実施される。これに対し、国語教育では、言語と文学を同一の教科の中に混ぜて行うたてまえになっている。」(倉沢1967: 13)なお、この文献では「倉澤」ではなく「倉沢」と表記されており、本発表ではこの表記に従った。
*4:発表者は大学入試のいわゆる自由英作文の対策として、予備校生に日本語による短作文の練習を課すことがある。200字程度の文章を書かせてその展開の仕方を学べるようにしている。従来の受験英作文の指導では、まず英語の文が書けるようになってから文章を書く練習を行うことが多かったが、日本語の作文を取り入れることで文構造の学習と文章構造の学習を同時に並行して行うことができるようになる。