持田哲郎(言語教師@文法能力開発)のブログ

大学受験指導を含む文法教育・言語技術教育について書き綴っています。

文章にとって文法とは何か(その4)

文法における文章論(続き)

文法における文章論は文章の表現の展開を分析するところから始まった。この場合、句や文の接続部分に着目することになる。形式面で言えば、連用中止法による接続法、接続助詞や接続詞を用いる場合、副詞や指示語の用法などが問題となる。意味面で言えば、反復・補足・前提・順接・逆接・累加・並列・対比・転換などに分類されることが多い。ただし、こうした分析は森田(1969)が指摘するように、時枝以前の国語学においても試みられている分析であり、必ずしも文章論の範疇のものとは言い難い。また、こうした接続部分の分析は、論理によるものになっている。しかし森田は、文章表現が必ずしもこうした論理的な構成になっているとは限らないと指摘する。
文章の分析に際して、論理の枠組みをアプリオリに設定すべきではない。森田は「内面の意味が展開形式としてとして外面に現れるのは事実であるとしても、展開部の形式を理由に内面の意味を判断し規定することはできない。」(森田1969:71)と言う。だが、これは文章の分析手法が、現実の言語使用を捉えきれていないだけのことである。ここで必要なのは、接続詞などの記述研究である。そのうえで、文脈理解に役立つ用法と、むしろ妨げる用法に分類できれば、文章表現のための文法として規範化することができる。この場合は現実の用法と望ましい用法の峻別が求められ、前者が文章理解のための文法知識となり、後者が文章表現のための文法知識ということになる。
接続詞などの接続法に加えて、指示語などの照応についても問題がある。文章技術を指南するような書物では、主語のない文を誤用扱いにしたり、省略が日本語の没論理性を象徴しているかのような言説を目にすることが多い。しかし、池上(1983)は文章の結束性、すなわち前後関係を支える方法の1つとして「省略」を挙げている。澤田(1977)も、論理性は文章の全体構造によって決まるものであって、文の構成素の省略によって損なわれるものではないと述べている。省略=論理性の喪失という考えが誤解であることを明らかにする論考としては、矢野(1983)がある。矢野は日本語における名詞句の省略を「ゼロ代名詞化」と呼び、英語の人称代名詞化と並行する言語現象と考えている。こうした研究成果を文章表現/理解のための文法に盛り込むことも考えていく必要がある。
文章論のとして扱うべき言語現象は、接続語や指示語だけではない。時枝(1960)では、文章論の対象となる文章は完結体である文章であり、線条的継時的に展開されるものと考えられている。つまり、第1文から第2文、第2文から第3文というように文を順番に並べて叙述を展開し、最終文で締めくくると言う過程を経て生成されるのが文章だというのである。永野(1992)はここから、文章論に「連接論」「連鎖論」「統括論」の下位領域を措定している。連接論とは結束性の仕組みを解き明かすものである。連鎖論は複数の文による、いわば文章の流れを明らかにするものである。統括論は連接論や連鎖論を踏まえて文章がどのようにまとまっていくのかを明らかにするものである。永野の枠組みからすれば、指示語や接続語の問題というのは連接論の一部に過ぎないのである。

参考文献

  • 池上嘉彦(1983)「テクストとテクストの構造」国立国語研究所『談話の研究と教育I』大蔵省印刷局
  • 森田良行(1969)「文章論の目指すもの−その効用−」『文法』1(3) pp.70-74.
  • 永野賢(1992)「文法論としての文章論」『日本語学』11(4) pp.12-15.
  • 澤田昭夫(1977)『論文の書き方』講談社学術文庫
  • 時枝誠記(1960)「文章研究の意義と方法」『国文学』5(9) pp.2-7.
  • 矢野安剛(1983)「文を超える文法」『日本語学』2(2) pp.41-47.

論文の書き方 (講談社学術文庫)

論文の書き方 (講談社学術文庫)