「生活綴方」という発想(その2)
「その1」は2年近く前のエントリーになります。
綴方の指導
鈴木(1935)は、子どもに書くのが無理なものを書かせておきながら、綴方が伸びないという教師が多いと言っている。書ける題材から始めなければならないというのだ。題材が難しいと、自分が直接経験してもいないことを、経験したことのようにでっち上げて書いてしまう子どもが出てくるという。こうなると、文章を無理矢理こねくり回すようになってしまう。綴方の指導においては、子どもの経験し得ないような、難しい題材を与えるべきではないというのが、鈴木の主張である。
次に、鈴木は抽象的な課題で文章を書くことの難しさを指摘している。具体的な経験から離れた、こうした抽象的なテーマで文章を書くことは、大人であっても困難なことである。これを、例えば何が耐えねばならない経験であったかの分析ができない子どもに、「忍耐」という課題で綴方をやらせるのは無謀だというのである。こどもは、事実は書けるが、概念や観念では書けないということを知るべきだと鈴木はいう。
綴方とは、直接見たり、聞いたり、感じたり、考えたことを記述するものであると鈴木は言う。このなかで、感じたことや考えたことは、低学年の子どもの場合は断片的になりがちで、これを文章化するには苦痛を伴うのだと言う。ただし、直接見たり、聞いたり、といっても、それが綴方のためだということを強調しすぎると、生活が窮屈になる。自然に物事を見つめ、感じ取るように導いていかなければならないという。
現代的視点からひとこと
「志望動機を教えてください」と言ってくる高校生や大学生がいる。試験対策の小論文や論作文指導においても、綴方指導の考え方から学ぶところは少なくないと思う。