文章におけるレトリックとは何か(その2)
ふたつのレトリック
古代ギリシア・ローマの弁論術では、言論の機能は「説明する」「楽しませる」「感動させる」の3つに分けられるという(佐藤1994)。佐藤は、この3分法は2分法の変形であり、「説明すること」と「楽しみを与えること」の2方向から「感動させること」を目指すのだと指摘している。佐藤の表現によれば、この2つは「解明し論述する技術としての《説得》のレトリック」と「快感を呼びおこすための《表現》のレトリック」ということになる。
日本でレトリックというと、これまでは後者の意味で解されることが多かったようである。尼ヶ崎(1988)でも、日本語のレトリックとして後者に分類されるような現象を多く取り上げている。こうした状況に対して木下(1981)は、佐藤の前者のレトリック、すなわち「言語によって情報や意見を明快に、効果的に、表現・伝達する方法」(11)を身につけることが必要であると説く。こうした方法が従来重視されてこなかったのは、岡部(1993)が言うように、日本人の生活の中で相手を意識的に説得しようという考え方が希薄であったからであろう。
「文学的な作文」について
木下はまた、日本の学校の作文教育が極めて文学的であると指摘している。戦前の鈴木(1935)でも綴り方の作品としての価値は芸術的な価値であるとしている。ただし、同時に作家に望むような芸術的な価値を児童に望んではならないとも説いている。模倣主義から表現主義への脱却を図ろうとしていた当時は、国語教育全体が文学教育に傾倒していたもあり、文学的な作文にならざるを得なかった(西尾1962)。戦後は「我々の生活における言語生活の体系を、言語生活の実態と名づけるならば、言語生活の実態の記述こそ、言語観察の重要な課題であるとともに、国語教育の目標も、国語政策の方針も、そこから割り出されること」(時枝1955:134)という言語生活の考え方が浸透した。西尾(1962)は、こうした言語生活の考え方を踏まえ、「通じ合いとしての作文教育」を基盤として、文学的作文はあくまでもその先にある応用・発展的なものとする位置づけを提案している。だが、私見ではあるが、鈴木が危惧していた、「いきなり文学志向」の作文教育がいまだに根強いような気もする*1。
参考文献
- 尼ヶ崎彬(1988)『日本のレトリック』筑摩書房.
- 木下是雄(1981)『理科系の作文技術』中公新書.
- 西尾実「作文と言語生活」『国文学』7(13) pp.8-11.
- 岡部朗一(1993)「日本のレトリック」橋本満弘・石井敏(編)『日本人のコミュニケーション』桐原書店.
- 佐藤信夫(1994)『わざとらしさのレトリック』講談社.
- 鈴木三重吉(1935)『綴方読本』中央公論社.
- 時枝誠記(1955)『国語学原論続編』岩波書店.
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*1:もっと、現在の現実の国語教育に触れていかないといけないと実感します。