持田哲郎(言語教師@文法能力開発)のブログ

大学受験指導を含む文法教育・言語技術教育について書き綴っています。

文章におけるレトリックとは何か(その3)

文章表現における場面の制約と認識

時枝誠記の言語過程説では、言語の表現や理解は場面の制約を受けるという。この場面という概念は、場所的な概念に加え、理解者や理解者が置かれている状況、そしてもちろん表現者が置かれている状況を含むものである。しかもこの概念は客観的なものではなく、表現者がこうした状況をどう捉えるかを反映する、極めて主観的なものである。これは、深谷・田中(1996)の言う意味づけられた状況、すなわち情況に相当する。
言語学習がMcLaughlin(1978)の言うように制御的処理(controlled process)から自動的処理(automatic process)に移行していくものだとするならば、言語の表現技術を学ぶ際には場面=情況の意識的な認識が必要になる。野内(2008)が指摘するように、説得は表現者・理解者・状況などのコンテクストに依存するわけだから、情況の意識的認識は話したり書いたりすることの学習には書くことのできない要素と考えるべきである。英語のような外国語であれば、話す場合も書く場合も同様にこうした配慮が必要になるが、母語である日本語の場合はとりわけ書く場合にこの点を留意する必要がある。清水(1959)や外山(1987)が示唆するように、話し言葉とは異なり、書き言葉は母語であっても無意識的な習得は期待できないからだ。

読み手を把握する

文章には、自己表出としての文章と読み手を想定した文章の2つがある(岩淵1968)。自己表出の文章であれば、他人が読んで理解できるかどうかなど配慮しなくてもいいので、自由な表現が可能である。しかしこうした文章は日記などの限られたものであり、その他の文章は読み手を想定した文章である。綴方教育に端を発する作文教育で児童が学んできたのは自己表出の文章であった(井上1963)。このような、いわゆる「生活文」が書けるようになることは、基礎的な言語技術を身につけるという意味ではもちろん有効である。しかし、言語生活という観点に立てば、書く文章すべてが読み手を想定しない自由奔放な自己表出というわけにはいかない。やはり、読み手に理解され、内容が的確に伝わるようでなければならない。

参考文献

  • 深谷昌弘・田中茂範(1996)『言葉の〈意味づけ論〉』紀伊國屋書店
  • 井上敏夫(1963)「書くことの教育」『国文学』8(2) pp.175-179.
  • 岩淵悦太郎(1968)「現代社会と文章」『国文学』13(2) pp.8-9.
  • Mclaughlin, B. (1978) "The Monitor Model: Some Methodological Consideration," Language Learning, 28(2) pp.309-332.
  • 野内良三(2008)「論理と説得:詭弁のすすめ」『言語』37(3) pp.68-75.
  • 清水幾太郎(1959)『論文の書き方』岩波新書
  • 外山滋比古(1987)『日本語の論理』中央公論社

コトバの「意味づけ論」―日常言語の生の営み

コトバの「意味づけ論」―日常言語の生の営み

論文の書き方 (岩波新書)

論文の書き方 (岩波新書)

日本語の論理 (中公文庫)

日本語の論理 (中公文庫)