持田哲郎(言語教師@文法能力開発)のブログ

大学受験指導を含む文法教育・言語技術教育について書き綴っています。

論理的ということ

論理と言語

沢田(1989)は、人間の言語コミュニケーションでは言語構造を基礎とした論理的操作は働いているのに対し、動物の非言語コミュニケーションでは論理的操作が希薄であるという指摘をしている。この指摘は、言語コミュニケーションにおいて論理が重要な役割を果たしていることと、論理は言語の存在を前提としていることの2点で示唆的である。このため、沢田は人間の言語は言葉であると同時に論理でもあると述べている。
沢田はさらに、人間の言語はその基礎的な部分では、知覚と協働するするのだと指摘している。文の基礎的な論理形式Fxのxの部分は文の中の語として生じていなくても、注視や指示といった知覚の行為によって補いうるのだという。同様の指摘は川本(1978)にも見られる。川本によれば、例えば、「太郎がフランス語を話す」と「フランス語が太郎を話す」では前者のみが正しい文であると解されるが、これは日本語では「が」や「を」のような格助詞が論理関係を表示し、前者の文の論理関係は我々の現実経験と合致するが、後者の文では合致しないためからだという。さらにこれが「太郎もフランス語は話す」のように係助詞が用いられると、文法的関係からは論理関係は把握できず、現実経験などによって理解されるのだという。

日本語の論理

日本語が論理的でないという指摘がときどき聞かれる。外山(1987)は日本語が非論理的に感じられる原因の1つが、翻訳に見られる日本語にあると指摘している。こうした翻訳は意味をなさないものも少なくない。この事態を翻訳の日本語が粗悪であると批判するのではなく、日本語そのものが論理的でないからだという非難にすり替えられてしまったことが問題だというのが、外山の主張である。
このような事態に陥る要因として、翻訳を形式的に行いすぎていることを外山は指摘する。ヨーロッパの言語と日本語との差異を無視し、機械的な翻訳に終始してしまったというのである。ここで外山は沢田が言うような形式論理ではない、個別言語と不可分の論理の存在を示唆している。
おそらく、文レベルの論理関係は普遍的な形式論理でもある程度説明が付くのであろうが、テクストレベルの論理は実は個々の言語に固有のものではなかろうか。もっとも後者の論理を果たして「論理」とよんでよいのかという疑問はある。「修辞」と呼ぶべきものなのかもしれないが。

論理より文法

受験現代文では、論理が重要と盛んに唱えられている。だが、論理が言語の存在を前提としていること、基礎学力の低下が指摘されていることの2点を考慮すれば、現代文読解に必要なのは論理よりも文法ではなかろうか。もちろん、従来のような学校国文法のままでは役には立たない。テクスト理解に最適化した学習文法を構築していく必要がある。

参考文献

ことばの色彩 (1978年) (岩波新書)

ことばの色彩 (1978年) (岩波新書)

言語と人間 (講談社学術文庫)

言語と人間 (講談社学術文庫)

日本語の論理 (中公文庫)

日本語の論理 (中公文庫)