持田哲郎(言語教師@文法能力開発)のブログ

大学受験指導を含む文法教育・言語技術教育について書き綴っています。

学問としての英語?(続き)

「学問としての英語」とほぼ同義と思われる表現に「言語学としての英語」という表現がある。やはり「コミュニケーションとしての英語」や「道具としての英語」と対立する概念を指しているようである。しかし、言語学とは言語のありのままの姿を捉えるための学であり、また人間の脳内や社会・共同体の中でそうした言語が生じる仕組みを明らかにする学である。つまり、言語学はコミュニケーションの実相を捉える方法の1つなのである。それにもかかわらず、「言語学としての英語」という概念を形成し、本来の言語学習のありようとは異質なものとして口にする者がいるのである。
この背景には、言語学を難解なものとして敬遠する傾向が存在する。確かに言語学が難解な印象を与えることは事実である。しかし言語学の豊富な知見を英語教育/学習に援用しなければ、英語教育はいつまでも勘と経験だけが頼りの名人芸の域をでないし、学習者側もまた、いわゆるセンスのいい者だけが、確実に英語力を身につけていくということになってしまう。これでは、「コミュニケーションとしての英語」ということをいくら唱えても、すべての学習者にそれを学ぶ機会を確保することが実現できなくなってしまう。
もっとも、学問臭をまき散らすような指導も確かに存在する。言語学の概念をそのまま持ちだして「高級感」を醸し出す授業が行われることもしばしばである。「言語学としての英語」とは、おそらくはこのような授業を念頭に置いて言われているのであろう。自戒の念も込めて言えば、英語力の向上と無関係で学習者を無用な陶酔に陥らせるだけの「高級感の醸成」は、慎まなければならないと思う。