コア理論についての考察(その1)
「学習文法理論」と「学習文法」
pedagogical grammarに対する訳語として、「教育文法」が阿部(2000)や佐藤・河原・田中(2007)によって用いられるようになってきた。しかし、この用語が問題の所在を曖昧にさせているのも事実である。佐藤らは、「健全な教育英文法」(sound pegagogical grammar)の条件として、指導可能性(teachability)、学習可能性(learnability)、使用可能性(usability)の3つを挙げている。これは田中・白井(1994)の考え方に沿い、理論言語学と応用言語学の立場の違いを明確にしたことによって得られたものと言える。佐藤らによれば、従来の文法では指導可能性の条件は満たしているものの、他の2つの条件は満たされているとは言い難いという。従来の文法に代わるものとして、田中(2008)が生まれることになるのであろう。これは使用可能性に関しては飛躍的に向上していると言って良いだろう。だが、指導可能性はむしろ後退し、学習可能性も向上しているとは言えない。従来の文法知識がないと理解できないおそれがある反面、従来の文法知識を中途半端に身につけていると、田中の用語に却って混乱してしまうおそれもあるからだ。こうなるのも、「教育文法」の名の下に、教師が持つべき全体像としての「学習文法理論」と、学習者が学んで使っていく「学習文法」の区別を明確にしてこなかったためではないか。
レキシカル・グラマー
レキシカル・グラマーとは、語彙の観点から文法を捉える試みである(佐藤・河原・田中2008)。この試みは、個々の語彙には文法的情報が内在しているという考え方に立脚するものである。語彙の観点から文法を捉えるというのは、語彙的な意味がその語彙の文法的性質を決定すると考えるということである。語彙的意味とはその語彙の中核的意味であり、「コア」と呼ばれる。コアはレキシカル・グラマーを支える重要な概念である。
コアに関しては、いくつかの問題がある。1つは、すべての語彙にコアが認められるのかどうかである。品詞によってはコアが認められない場合があるのかどうかがここでの焦点である。次に、コアが認められる場合に、コアを直接学習者に提示することが適切かどうかである。もちろん、コアが直接提示するのに向かないからと言って、コア理論が無意味と言うことにはならない。明示的な文法指導であっても帰納的にコアに導くことは考えられるし、TPRやGDMなどで非明示的にコアを意識させることも考えられる。また、すべての文法項目をコアに基づく意味論主導のやり方で提示することが適切かどうかということも、考えていかなければならない。