持田哲郎(言語教師@文法能力開発)のブログ

大学受験指導を含む文法教育・言語技術教育について書き綴っています。

コア理論についての考察(その2)

「使える英文法」と認知言語学

認知言語学による『使える英文法』」ということが言われる。これはいったいどういうことなのだろうか。田中(2008)は認知言語学の前提として「言語は人々の世界のとらえ方を反映している」ということを挙げている。そして、この前提から次の2点が引き出されるという。

  1. 表現する主体と文法は無関係では決してない。
  2. 文法においても意味的な動機づけがある。

これらの是非を論じる前に、用語の問題を解決していかなければならない。「世界のとらえ方」というが、この「世界」は一般の学習者が考えている「世界」ではない。ここでの「世界」とは、主体を取り囲む世界、つまり身の回りにある、見たり聞いたり考えたりした世界である。そして「主体」とは、言語の担い手である。ここでは「表現する主体」であるから、話し手や書き手である。なお、「無関係ではない」という言い方よりも「関係している」のほうがより明快である。さらに、「意味的な動機づけ」は「意味的な理由」などと言い換えるべきであろう。一般の学習者にとって「動機づけ」は「きっかけ作り」という意味でしかないのだ。コア理論の英語教育への有効性云々を議論する以前に、こうした感情的な拒絶反応を引き起こす要因を排除しておかなければ、たとえよい理論であっても現場に広く浸透することはない。
本題に戻る。「言語は人々の世界のとらえ方を反映している」という考え方は、何も認知言語学の枠組みで初めて唱えられたものではない。ソシュールは人間の持つ普遍的な言語能力・抽象能力・カテゴリー化能力、そしてその能力を発揮する活動を「ランガージュ」と呼んだ(丸山1981)。ランガージュが個々の社会で独自に顕現されたものが「ラング」となる。つまり、ソシュールも、言語は人間の世界のとらえ方を反映したものと考えているのである。しかし、ランガージュは潜在的な能力である。人間の「こころ」(mind)にあるのだ。ラングは顕在的な社会制度といわれるが、これも文法書のような形で記述・提示しない限り目に見えるものではない。実際に話したり書いたりする言葉は「パロール」と呼ばれる。コアとは、個々の用例の分析から帰納的に得られるもので、パロールから抽出したラングの断片である。そのラングとしてのコアは、人間の外界認識、すなわちランガージュの産物である。このように考えると、コア理論というのはソシュールの理論を精緻化したものにすぎないということになる。
コア理論=新ソシュール理論と考えると、「言語は人々の世界のとらえ方を反映している」という前提から、上記2点がなぜ引き出されるのかが問題となる。ラングは社会的コードと言われるが、これは絶対に逸脱してはいけないというような厳格なものではない。池上(1992)の言い方に従えば、「記号」−「コード」−「解読」といった厳格な場合だけでなく、「記号機能」−「コード作成」−「解釈」というようにあらかじめ決まれているコードではない、新たなコードが言語活動において生まれることがあるのである。また、丸山(1981)が指摘するように、パロールはラングの行使であると同時に、ランガージュの行使であるという。つまり、パロールによってラングが変容していくというのである。
ここで注意しておかなければならないのは、このランガージュ、ラング、パロールの関係はあくまでもそれぞれの社会における母語話者の場合に限られるということである。外国語として学習している者には創造的なパロールなどありえない。また、パロールによってもたらされる言語の多様性ばかりを見せつけられたら、学習者は混乱に陥ってしまう。このことから、認知言語学の前提だけでは「文法は表現者と密接な関係がある」とは、少なくとも学習文法のテーゼとしては導けない。もうひとつ、2.についてであるが、これはネイティブのランガージュ−ラング−パロールのありようを記述することによって可能となろう。認知言語学によって、従来よりもこの記述が強力に進めていくことができるようになっている。その意味では「認知言語学による『わかる文法』」は、ある程度実現可能であろう。しかし、「認知言語学による『使える文法』」については特に貢献しているとは言えず、ソシュールの枠組みより進展しているわけではない。「使える」ためには、何か別個の知見が必要なようである。

参考文献

ソシュールの思想

ソシュールの思想