持田哲郎(言語教師@文法能力開発)のブログ

大学受験指導を含む文法教育・言語技術教育について書き綴っています。

ゼミ発表資料

2010年11月19日にゼミで発表した資料を転載します*1。前期末の7月22日のMD合同発表会以降、久しぶりの本格的なゼミ発表となりました。このため、8月30日の自主ゼミや10月1日のゼミでの、まとめかけの発表内容をもう一度捉え直し、前期発表分を含め修士論文のアウトラインを意識して再構成したものを発表させていただきました。このため前期発表分と一部重複する内容が含まれています。

メタ言語能力と言語教育

国語科教育と外国語科教育との連携【新規】

本研究では、国語科教育と外国語科教育との連携を基盤としている。国語科教育も外国語科教育も、言語教育という広い括りで捉えることができる。こうした考えは、古くは石橋(1967)に見ることができる。

母国語といい、外国語というが、ともに言語であるという点は共通であるから、その教育においても、共通の基盤のうえに立つべきものであることは、こと新しく言うまでもないことである。(石橋1967: 208)

しかし、国語科教育と外国語科教育は、同じ言語教育でありながら、両者の間には対象とする言語の違い以外にもさまざまな相違点があるのも事実である。石橋は次のようにも述べている。

両者の共通基盤を求めると同時に、両者の違いを理解し合って、相互に協力し合うことが急務ではないか、ということを考えたことが一つの動機となって、言語教育学の提唱となったのである。(石橋1967: 224)

このように言語教育学という構想が1960年代にうち立てられたのであるが、これまでのところ具体的な成果は上がっていないように思われる。大津(2009)は国語科教育と外国語科教育との連携について、「国語教育・英語教育の共通基盤を明確にし、さらにその共通基盤と国語教育・英語教育それぞれとの関係を明確にする努力が決定的に欠けていた」(大津2009: 15)と述べている。国語科教育と外国語科教育の共通基盤や両者の関係について、大津は心理言語学の見地から考察を加えているが、この問題は社会言語学の視点から捉えていくことも必要である。学校教育法施行規則における教科が「外国語科」であるにもかかわらず多くの場合英語が教えられている事実も、社会言語学的な要因が絡んでいる。そこでまず言語教育全般に関わるものとして、金水(2010)の階層的言語観から国語科教育や外国語科教育で教え、学ばれるべき言語能力を求め、そこに国語科教育と外国語科教育の連携の基盤を求めたい。さらにそうした言語能力を育てるために大津(1982, 1989, 1995, 2006, 2009)のいうメタ言語能力の発達を促進することを具体的な連携の基盤としたい。

階層的言語観と言語教育【10/1発表分に加筆】

金水(2010)は「階層的言語観」の立場から、言語を使用域によって〈子供の言語〉〈地域の言語〉〈広域言語〉〈グローバルな言語〉の階層で捉えている。人間が生まれてすぐ、いわば本能的に獲得するのは〈子供の言語〉であり、成長とともに地域社会の構成員との相互作用によって発達させていくと〈地域の言語〉となる。〈子供の言語〉と〈地域の言語〉は音声言語が中心で、「私的空間(=相互了解圏)内において通用する「私的話し言葉」」(日本学術会議2010: 11)と捉えることもできる。〈広域言語〉は、法律、行政、産業、技術、学術、文芸等高度に知的な営為を担う言語である。ここで中核をなすのは書記言語であり、音声言語はこれに従属する。これらは、「公共的言語」(日本学術会議2010: 11)に通じる概念である。金水は〈広域言語〉が〈グローバルな言語〉とのインターフェースとなって高度に知的な語彙を生み出す場となっていると述べているが、これは外国語から日本語に翻訳される場合に主に〈広域言語〉に翻訳されることを意味する。〈グローバルな言語〉は、現在では英語がその地位を占めるが、あくまでも書記言語を中核とする英語である。
階層的言語観を言語習得や言語教育の視点から見ていこう。〈子供の言語〉は「人間が生まれて最初に獲得する言語」(金水2010: 3)であり、「言語教育を受けようが受けまいが、生後の一定の期間に一定の言語経験を取り込めば、だれでも獲得可能である」(大津1996: 387)。こうして、子どもは就学年齢に達するまでに、一応の話しことばを身につける(石橋1967)。これが〈地域の言語〉となっていくのである。難波(2008)は学校の国語科授業で行われる「国語科教育」に対して国語科以外での学びを「母語教育」と呼んでいる。〈子供の言語〉や〈地域の言語〉といった「私的話し言葉」は、難波のいう母語教育のなかで学び続けるものといえる。これに対して、〈広域言語〉のような「公共的言語」は、こうはいかない。読み書きの能力は、教えられ、学ぶことによってしか身につかない(金水2007)。日本学術会議(2010)は、自然に身につけた母語を土台としつつ、それを論理的な公共的言語(=広域言語)へと育てていくことが公教育の目的でなければならないと主張している。難波は「国語科教育」について「特に学校の国語科で意図的に行われるもの」(難波2008: 192)と述べている。書記言語を中心とする公共的言語は学校の国語科で意図的に教えられ、学ぶものであるといえる。書記言語の教育は、読むことの教育と書くことの教育からなる。そのなかでも推敲により的確な表現を追求し、思考の発展を促すという点で、書くことの教育が重要であるといえる(西尾1967)。
次に外国語教育との関連について見ていく。いわゆる「日常会話レベル」といわれる、〈地域の言語〉のレベルでバイリンガルであったとしても、そこから〈広域言語〉のレベル、すなわち、「二言語ともに、知的な文章を読み書きできたり、人前で討議や発表ができるレベル」(金水2010: 6)に到達することは容易ではない。また、日本の言語環境において、〈地域の言語〉のレベルで接触する言語は英語よりも、中国語、韓国語、スペイン語ポルトガル語などである場合の方が多く、英語が中心の〈グローバルな言語〉とは一致しない場合が多い。このように考えると、学習者には比較的早い段階で多くの言語に触れさせて、言語の多様性やその背後にある文化の多様性に気づかせることが必要であると同時に、〈グローバルな言語〉としての英語を身につけさせることが必要となる。このレベルの英語を身につけるには、母語である日本語を基盤とすることが有効であるといわれている(第22期国語審議会答申「国際社会における日本語の在り方」)。〈グローバルな言語〉を身につけさせるための英語教育においては、「一言語を知的に高いレベルに引き上げてから、他言語にスライドさせる」(金水2010: 6)やり方が有効であるといえる。こうしたことから、〈グローバルな言語〉インターフェースとなる〈広域言語〉としての日本語の基礎が形成される高等学校において、国語科教育と外国語科教育の連携が求められるということができよう。

言語教育と言語技術教育【新規】

国語科教育と外国語科教育は、具体的にどのように連携していくべきであろうか。そして連携における国語科教育の役割とはどのようなものであろうか。三森(2004, 2009)は、国語科教育において「言語技術」(language arts)を教えるべきであると主張している。欧米で行われている言語技術教育の概要について、三森は次のように述べている。

欧米の母語教育の本質は「言語技術」である。その母語教育においては、文法、語彙の他に、物語・説明・論文・読解の方法などが指導される。授業は基本的に議論と作文とで成立する。小学校から高校まで、対話(議論、討論、プレゼンテーション)の方法論が指導され、同時に作文の方法論(物語・説明・パラグラフ・論文など)が体系的に指導される。さらに思考力を鍛えるために批判的読書(critical reading)と呼ばれる読解指導がやはり体系的に実施される。この読解指導は議論で成立し、作文(論文)で締めくくられる。欧米の母語教育の目標は自立して批判的に読書し、その考察的結果を論文形式で記述する能力を育成することにある。(三森2009: 28)

三森のいう言語技術教育における「対話」は、「自分自身の意見を根拠に基づいて発言させる」(三森2004: 16)ものである。これは相互了解圏における私的話し言葉ではなく、公共的言語としての音声言語の教育である。言語技術教育における作文はコンポジションと呼ばれる。森岡(1962)はコンポジションを構成する要素が日本の国語科教育における「書くこと」の指導事項に近いものであることを指摘している。しかし、森岡も「指導の体系が確立せず、重点の置き方にかたよりがあったり、各事項がバラバラで有機的でなかったり、というような欠点があったかもしれない」(森岡1962: 26)と述べている。戦後の日本の国語教育は「言語生活」という考えの上に成り立っており、倉沢(1967)は「生活として押さえていく立場では、技能や対象(文学という対象)を中心とする考えとは大きく違う。」(倉沢1967: 22)と述べている。欧米のコンポジションと日本の作文教育が同様の構成要素から成り立っていても、言語技術と言語生活という、言語教育全体の考え方の違いによって書くことの教育のあり方が大きく違っているといえよう。
国語科教育の軸足を言語技術教育に移すとしても、何から何まで欧米流にするわけにはいかない。日本語は日本語、英語は英語というように、それぞれ個別に身につけなければならない要素と、日本語で身につければあとはほかの言語の学習・運用にも共通に適用することができる要素とにわけて考える必要がある。森岡(1967b)は、「読むこと」と「書くこと」の技能を次のように整理している。

○主題を把握する技能
○材料を把握する技能
○論理的に構成を押さえる技能
○段落に分割し整理する技能
●構文(syntax)に関する能力
●文法力
●語彙力
●文字力
●表記力

森岡は、●印の項目を言語教育における下部構造、○の項目をその上部構造と呼んでいる。下部構造は言語によって体系が異なるのに対して、上部構造は言語間の差異よりも共通性のほうが大きいと言える。また、鳥飼(2010)は、インターネットによる情報伝達で有利であるなどの理由で、日本語の文章構成でも論理構成だけは英語ロジックに準拠することが必要であると述べている。もっとも、三森(2004)は言語技術教育において「作文では、ただ書かせるだけでなく、様々な種類の文章を書くための技術が指導される。」(三森2004: 16)と述べており、感情に訴える文章や論理に訴える文章の書き分けができるような教育を行えばよく、後者の場合に英語ロジックに準拠すればよいといえる。
広義の言語教育は、言語技術教育と狭義の言語教育から成り立つと考えることができる。前者が森岡のいう上部構造の技能に習熟することを目指す教育で、後者が下部構造の知識や技術に習熟することを目指す教育ということができる。糸井(1995)は、言語教育としての国語教育は生きる力としての広義の言語能力を育成するものであると述べている。そして広義の言語能力は、狭義の「言語能力」と「メタ言語能力」から成り立つとしている。糸井は「言語能力(狭義)」と「メタ言語能力」との関係について、次のように述べている。

2領域(理解と表現)では、言語能力を育成し、1事項(言語事項)では、メタ言語能力を育成すると、まず図式的にとらえてみてよいが、言語能力とメタ言語能力とは、相互に育成しあう関係にあり、言語能力の育成がおのずとメタ言語能力を培い、逆にメタ言語能力が言語能力を培うという関係にある。(糸井1995: 126-127)

狭義の言語能力は理解と表現を可能にする能力であるから、言語技術教育で育成する能力である。これに対して、メタ言語能力は狭義の言語教育で育成する能力である。メタ言語能力をどう定義するかについては節を改めて検討することとするが、ここでは、糸井が「語彙教育や文法教育は、言語使用者に経験的に無意識のうちに獲得されているものを意識化させる教育」(糸井1995: 127)と述べ、語彙教育や文法教育をメタ言語能力育成の教育の中に含めていることを指摘しておく。

メタ言語能力の概念

メタ言語能力の定義【前期および8/30発表分を修正】

メタ言語能力(metalinguistic abilities)の定義を簡略化して言えば、人間の脳内に内蔵されている言語知識を客体化して利用できる能力となろう(大津1982, 1989)。この概念を指す用語としては、「メタ言語知識(metalinguistic knowledge)」(大津1982)、「メタ言語能力(metalinguistic abilities)」(大津1989など)、「メタ言語意識(metalinguistic awareness)」(Tunmer, et al. eds, 1984など)がある。岡田(2005)は言語について語る言語を「メタ言語」(metalanguage)と定義し、メタ言語を操る能力を「メタ言語能力」と定義している。しかし、Tunmer and Herriman(1984)は「メタ言語意識」がメタ言語の例示化(instantiations)のことであり、メタ言語知識を指すものではないことを強調している。「メタ言語能力」と「メタ言語意識」については、前者を後者を意識化する能力と捉えられることもある(大津1995)が、生越(2007)など、両者を区別しない場合も多く、Leveltらのように"awareness is implicit knowledge that has become explicit"(Levelt, et al., 1978:5)と、「意識」を「知識」に言い換える定義も見られる。そこで、本研究では生越(2007)に従い「メタ言語能力」と「メタ言語意識」を区別せずに「メタ言語能力」と呼ぶことにする。
用語の問題からさらに進んでメタ言語能力の概念について見ていくことにする。そこでまずは、人間の脳内に内蔵されている言語知識とは一体どのようなものか考えていく。先ほど引用したLeveltらの定義にあるimplicit knowledge(非明示的知識)とは、Chomsky(1965)の言うlinguistic competence(言語能力)を指している。Chomskyの言語能力は言語運用(linguistic performance)と対立する概念で、前者は"the speaker-hearer's knowledge of his language"(Chomsky, 1965: 4)、後者は"the actual use of language in concrete situations"(ibid.: 4)と定義されている。仮にこうした非明示的知識として言語知識を捉えた場合、次のような定義は一見すると矛盾するように思われる。

As a first approximation, metalinguistic awareness may be defined as the ability to reflect upon and manipulate the structual features of spoken language, treating language itself as an object of thought, as opposed to simply using the language system to comprehend and produce sentences.(Tunmer and Herriman 1984:12 ※強調は引用者による。)

spoken language(話し言葉)とは、音声によって言語を運用したものであり、Chomskyの言語運用の一形態である。だが、Tunmer and Herrimanの定義はメタ言語能力をその使用場面から定義したものである。つまり、メタ言語能力を実際に使用するということは、Tunmerらに従えば話し言葉の構造的特性について考え、その構造を操作したりすることなのである。そのときに関与する知識が非明示的な言語知識を客体化・明示化したものと考えることは可能である。生越(2007)もメタ言語能力を「言語を客体として意識・観察・運用する力」(生越2007: 13)と定義している。こうした概念規定の視点の違いから、メタ言語能力を教育の観点から考える際に、言語を客体化して言語の特性に気づかせることと、気づいて得た知識を言語運用に活用することの2つの面を扱う必要があることがわかる。
先ほど引用したTunmer and Herriman(1984)の定義ではメタ言語能力の対象を話し言葉に限定しているが、書き言葉を含めた言語全般を対象とする定義も見られる。

Metalinguistic awareness may be defined at the general level as the ability to think about and reflect upon the nature and functions of language.(Pratt and Grieve 1984:2)

このPratt and Grieveの定義はメタ言語能力を行使する対象を言語全般としている。岡田(2005)によれば、大人も子どももメタ言語能力には個人差があるという。大津(2006)は、「優れた英語運用能力を身につけた人の多くは母語運用能力も優れており、その基盤にはメタ言語能力に支えられた言語意識が横たわっているのである。」(大津2006: 34)と述べている。こうした点を考慮すれば、メタ言語能力の育成は言語教育のあらゆる局面で行うことが望ましく、その前提としてメタ言語能力の対象を言語全般とする考え方を仮説的に採ることにしたい。
次にメタ言語能力が扱う言語知識の範囲について見ていく。すでに引用したTunmer and Herriman(1984)の定義では言語の構造的特性(structural features)を対象としており音韻論および形態統語論的知識をその範囲としていることが分かる。これに対してPratt and Grieve(1984)の定義では言語の性質や機能(the nature and functions of language)と幅広く対象を設定している。より具体的な規定としては、Tunmer and Bowey(1984)が「音韻意識」(phonological awareness)、「語意識」(word awareness)、「形式意識」*2(form awareness)「語用論意識」(pragmatic awareness)の4つの要素によって構成されるとしている。しかし、ここには語意識という曖昧な概念が含まれている。語という言語単位は音韻・形態・意味というように意識の向け方が一様ではないからである。この点、岡田(2005)指摘は明快であり、Tunmer and Boweyの構成要素よりも幅広く、音韻論、形態論、統語論、意味論、語用論などにかかわるものがあるとしている。さらに、大津(1989)はこれらの領域に加えてさらに談話法にも及ぶと述べている。本研究では岡田や大津の指摘を踏まえ、メタ言語能力は音韻論、形態論、統語論、意味論、語用論、談話法にかかわるという立場を取る。また、Pratt and Grieve (1984)の定義では、メタ言語能力行使の対象は「言語の性質と機能」(the nature and functions of language)となっている。言語の性質については以上の通りだが、言語の機能については大津(1995)のいう言語の社会的機能を念頭に置く必要がある。
以上を踏まえ、本研究ではメタ言語能力を以下のように定義する。

メタ言語能力とは、言語の音韻・形態・統語・意味・語用・談話の各領域についての知識を客体化し、また言語の社会的機能について意識し、言語運用の際に利用できる能力である。

この定義から、メタ言語能力の発達を促す教育には、「言語知識を客体化する能力」「言語の社会的機能について意識する能力」「客体化した言語知識を言語運用の際に利用する能力」の3つの要素を育てる教育が考えられる。

メタ言語能力と国語科教育における「言語感覚」との関わり【前期発表分】

メタ言語能力」という用語を国語教育の文脈で初めて用いたのは大津(1989)であるが、同様の概念を取り上げることはそれ以前においても見られた。古くは国民学校の国定文法教科書での文法の扱い方という観点から岩淵(1944)が次のように述べている。

一體われわれの用いてゐる言葉は、一見雜然としてゐるやうで實はそこに嚴とした理法が存するのである。われわれが言葉を用ゐる場合には、常にこの理法に從つている。唯この理法は普通意識されることがなく、反省してはじめて自覺し得るものである。(岩淵1944:30)

岩淵の言う「理法」が文法である。そして「反省してはじめて自覺し得る」に至らしめるのがメタ言語能力である。自覚した理法もまた文法であるが、こちらは明示的な知識であり、文法教育でその対象とされるものである。
戦後は永野(1958)が「確かな、完成した言語能力を養うために、文法的な意識を高め、自覚を深めることが必要になるのである。」(永野1958:21)と、「文法的意識」という言い方でメタ言語能力に相当する概念に言及している。永野に限らず、後述のとおり、文法教育の目標としてメタ言語能力(に相当する意識・能力)の育成をかかげているものも少なくない。また、大津(1989)は、国語教育においてはメタ言語能力の発達という概念が、「言語感覚の養成」、「知的訓練」、「言語構造・言語機能についての認識の深化」という言い回しで捉えられてきたと指摘している。
このうち、「言語感覚」という用語は国語科の学習指導要領のなかでも使われている。最も早い時期で使われた例は1947(昭和22)年の試案に見られる。第四章「中学校学習指導要領」第四節「読みかた」の「一 一般目標」で掲げられている9項目のうち、4項目めに「正しい言語感覚をやしない、標準語を身につける。」とある。ただし、この「言語感覚」という用語に対する公式の解説はなく、その後この用語は国語科学習指導要領からいったん姿を消している。次に言語感覚という語が使われたのは1960(昭和35)年告示の『高等学校学習指導要領』の「古典甲」でである。そこでは、「古典に親しんで、国語に対する愛情を育て、言語感覚をみがくようにする」という事項が「内容」のなかに盛り込まれている。なお、このときの「現代国語」では「すぐれた文章表現を読み味わうことによって,ことばに対する感覚を鋭くすること。」となっており、「言語感覚」という語は用いられていない。その後、1969, 1970(昭和44, 45)年告示の「学習指導要領」から国語科の目標で、「言語感覚」という用語が使われるようになり、現在に至っている。
このように40年以上にわたって国語科教育において用いられている「言語感覚」という用語であるが、これが研究者や学校現場で共通の理解が得られているのであろうか。浅田(1992)は、「「言語感覚」という用語は日本の国語教育界においてはよく用いられ、言葉自体は既に定着したと言ってよいが、最近はその用語が自明のものとして流布してしまっているという感がある。」(浅田1992: 101)と指摘し、甲斐(1988)も国語教育の現場で明確に理解されてはいないと指摘している。その理由として、浅田は「言語感覚」という用語の「感覚」という語が比喩的に用いられ、また一般に多様な意味で広く用いられている語であるためとしている。甲斐は国語学言語学の専門分野で取り上げられていないことを理由として挙げている。さらに町田(2001)は、「そもそも感覚を指導することができるのかという本質的な問題もある」と述べており、その概念はともかく、この用語に対する違和感が理解・定着の妨げとなっていることがうかがえる。
これまでに試みられた言語感覚の定義を見ていくことにする。浅田(1992)は言語感覚を次のように規定している。

言語主体が言語を表現乃至理解する際、表現乃至理解される個別的な言表と、その言語主体が属する集団における社会言語体系との間の差異や、個別的な言表相互の差異を、認識乃至感得する能力。(浅田1992: 108)

浅田の定義にある「社会言語体系」とは湊(1987)によるもので、湊はこれをソシュール(1972)の「言語(langue)」に相当する概念であると述べている。湊も言語感覚の定義を試みている。

端的に言語感覚を規定するならば、それは、音声・文法・語彙などの社会言語としての言語形式そのものについて、そして現実の場でのその適用について、個人が総合的直観的に評価し、判断する力ということになるだろう。それは、言語形式に伴う形態感情や、言語形式の知的意味の背景に働く情意的意味などと深い関連を持つものである。(湊1975: 166)

言語主体の言語知識・言語技能を言語生活の実際的場面の中へと主導し展開させてゆく上の、その誘導的因子のになう作用として規定することが可能な基礎的作用である。(湊1995: 27)

湊(1975)の定義は、言語感覚の対象を音声・文法・語彙などの言語形式や言語形式に対する形態感情やその背後にある情意的意味としている。また、湊(1995)は、言語感覚の対象を実際的場面の中へ展開する言語知識・言語技能であるとしている。これらはメタ言語能力が対象にするものと近いものと考えることができる。また、湊(1975)での対象を個人が総合的直観的に評価し、判断するという点においてもメタ言語能力の概念との親近性を認めることができよう。
メタ言語能力と言語感覚の概念には重なり合わない要素もある。町田(2001)の定義は、「ことばの正誤、適否、美醜などについて判断する感覚」(町田2001: 32)であり、甲斐(1998)も、言語感覚を(1)美醜、(2)正誤、(3)適切さ、(4)微妙な意味差の理解、(5)心遣い・表現効果、(6)語句への関心、の6種に整理しており、やはり美醜という要素を含めている。町田は正誤・適否は客観的な基準が存在するが、美醜は本来主観的な価値基準であると指摘している。また甲斐は「国語教育の分野で問題にするのは、国語の深みとしての万人共通の言語感覚の習得を通して、個々人の言語感覚を育成することでなければならない。」(甲斐1988: 75)と主張している。
これらの点を踏まえると、言語感覚には言語表現の正誤・適否といった万人共通で客観的な要素と、言語表現の美醜にかかわる個々人の主観的な要素とがあることになる。前者の要素はメタ言語能力として捉え直していくことが可能であろう。確かに、「感覚」と「能力」とは確かにまったく別の語である。だが田近(1982)はこの「感覚」を「直観的に何かを感じる主体の内的な働き」(田近1982: 255)と、心的過程として捉え、浅田(1992)はさらに進んで「能力」として規定している。「感覚」という用語には主観的なニュアンスを持ち、その感覚を指導することができるのかどうかという町田が示した問題も、能力として捉え直すことができれば解決するのである。

メタ認知から見たメタ言語能力【前期発表分に大幅加筆】

メタ言語能力は、メタ認知(metacognition)の一種であると考えられている(Flavell, 1976; Clark, 1978; Tunmer and Bowey, 1984; Birdsong, 1989)。Flavell(1979)は、メタ認知が口頭による情報伝達(oral communication of information)、口頭による説得(oral persuasion)、聴き取り(oral comprehension)、読解(reading comprehension)、作文(writing)、言語習得(language acquisition)、注意(attention)、記憶(memory)、問題解決(problem solving)、社会認知(social cognition)などにおいて重要な役割を果たすことが研究によって明らかになっていることを指摘している。メタ認知の定義としてはFlavell(1976)のものがよく知られている。

"Metacognition" refers to one's knowledge concerning one's own cognitive processes and products or anything related to them, e.g., the learning-relevant properties of information or data.(Flavell, 1976: 232)

Flavellはメタ認知の2つの側面を取り上げており、上に引用した定義はそのひとつである。メタ認知が認知過程やそれに関連した所産に関する認知主体の知識であるということは、メタ認知が「認知の認知」であることを意味している。Flavellが挙げたもう1つの側面とは以下の通りである。

Metacognition refers, among other things, to the active monitoring and consequent regulation and orchestration of these processes in relation to the cognitive objects or data on which they bear, usually in the service of some concrete goal or objective.(Flavell, 1976: 232)

これはメタ認知とは能動的なモニタリングとそれにともなう調整と両者の組織化であり、その過程は具体的な目標の下で認知の対象とそこから得たデータとの関連で行われることを意味する。ここから、メタ認知が「認知についての知識」という知識的側面と、「認知過程のモニタリングや調整」という活動的側面の2つから成り立っていることが分かる。Flavell(1979, 1987)は前者を「メタ認知的知識」(metacognitive knowledge)、後者を「メタ認知的経験」(metacognitive experience)と呼んでいる。両者をさらに、Flavell(1987)、Nelson and Narens(1994)に基づいて分類、整理したものが三宮(1996)の図である。

  • メタ認知的知識
    • 人変数に関する知識
      • 個人内変数に関するもの
      • 個人間変数に関するもの
      • 一般的な人変数に関するもの
    • 課題変数に関する知識
    • 方略変数に関する知識
  • メタ認知的活動(経験)

(三宮1996: 159)

メタ認知的知識のうち、人変数(person variables)に関する知識とは、認知主体としての人に関する知識である。これには個人の中での得意・不得意(個人内変数)、個人間の比較による認知的傾向・特性(個人間変数)、人間一般についての傾向(一般的な人変数)などの知識が含まれる。難波・牧戸(1997)は、文章表現において書き手自身の自己意識が個人内変数に関する知識に、「誰を読み手として想定するのか」という相手意識が一般的な人変数に関する知識に対応すると述べている。また難波らは、一般的な人変数に関する知識に文章が対象として描いている世界に関する知識を「世界意識」としてメタ認知的知識に加えている。
課題変数(task variables)に関する知識とは、課題の性質が認知過程に及ぼす影響についての知識である。例えば、音声データによる聴き取り試験では質問が1度しか聞くことができないので注意の負荷が大きいが、目の前の試験官とのインタビューテストでは聞き取れないものは聞き返せばいいので負荷が軽減されるといったものがこれにあたる。難波・牧戸(1997)は、文章表現において「何のために書くのか」という目的意識がこの課題変数に関する知識に対応すると述べている。
方略変数(strategy variables)に関する知識とは、目標にあった効果的な方略の使用についての知識である。メタ言語能力は正確で適切な言語の表現・理解を実現するための方略の中で適宜行使するものと考えることができる。難波・牧戸(1997)は、文章表現において修辞意識が方略変数に関する知識に対応すると述べている。修辞意識とは、「この文章のこの場面で適切な文字や語句はどのようなものがあるだろうか」(難波・牧戸1997: 152)という意識である。Canale(1983)のコミュニケーション能力(communicative competence)では、文法能力(grammatical competence)と方略能力(strategic competence)は別の構成要素として捉えられている*3。しかしメタ認知においては、意識化された文法能力としてのメタ言語能力は方略変数に関する知識に含まれると考えてよいであろう。難波らは、こうした言語知識の運用に関わる修辞意識とは別に、文章がどのような思考過程で書かれているのか、あるいは書いていけばよいのか、という思考の方略に関する意識として「思考意識」をメタ認知的知識に加えている。
メタ認知的活動(経験)はメタ認知的モニタリングとメタ認知的コントロールからなる。コントロールとはFlavell(1976)の用語の調整(regulation)に相当する。Nelson and Narens(1994)は、モニタリングやコントロールをメタレベル(meta-level)と対象レベル(object-level)との相互の情報の流れとして捉えている。メタレベルとはメタ認知のレベルであり、対象レベルとは認知のレベル、メタ言語能力を行使する場合には実際の言語運用となる。モニタリングとはメタレベルが対象レベルから情報を受けることである。例えば、文章理解を対象レベルで行っている場合、「ここが理解できない」という認知についての「気づき(awareness)」、「何となく読めている」という「感覚(feeling)」、「この先は楽に読めそうだ」という「予想(prediction)」、「この読みでいいのか」という「点検(checking)」、「うまく読めている」という「評価(evaluation, assessment)」などがモニタリングに含まれていると考えられる。コントロールとはメタレベルが対象レベルを修正することである。例えば、「完璧に理解しよう」という認知の「目標設定(goal setting)」、「まずは全体の内容を大づかみにしよう」という方略をはじめとする「計画(planning)」、「この読み方ではだめだから別の読み方をしよう」といった「修正(revision)」などがコントロールに含まれると考えることができる。
難波・牧戸(1997)は、言語活動の心内プロセスを大きく3つに分けている。1つは、メタ認知によるモニタリングとコントロールを受ける言語活動である。ここでは言語の理解・産出過程においてメタ認知的知識と照合され(モニタリング)、その言語活動をメタ認知的知識によって制御(コントロール)していく。〈地域の言語〉のような、相互了解圏の日常的で私的な会話はこのモードでは行われず、〈広域言語〉のような公共的な言語を用いた活動がこのモードで行われることが多いといえる。メタ言語能力を使用するのもこのモードである。2つめは自動化のモードである。〈地域の言語〉はこのモードで使用され、軽い読書や友人とのおしゃべりはこのモードで行われる。書記言語であっても、友人とのメールやSNSでのやりとりはこのモードで行われる。3つめは、メタ認知そのものの変容を伴う言語活動のモードである。示唆に富んだ文章や感動する文章を読んだときには読み手の世界意識が揺さぶられる。この場合、読み手はメタ認知的知識にアクセスしているが、そのメタ認知的知識が問い直される状況になっている。メタ言語能力の発達を促進する言語活動もこのモードで行われると考えることができる。

メタ言語能力の発達を促進する言語教育のあり方

メタ言語能力をいかに育てるか【前期発表分を修正】

メタ言語能力の発達を促進する教育とは、文法教育の一形態である。メタ言語能力をメタ認知全体で見た場合、メタ言語能力の発達を促進する文法教育とはどのようなものであろうか。佐伯(1985)は、メタ認知のスキルを他人から教示されて練習しても、その効果が限られていると指摘している。佐伯は、「何とかして覚えなければならないとか、ちゃんとわかっていなければならないという状況の認識と、そこに関わる自分の役割や責任の意識」(佐伯1985: 156)からメタ認知が発生すると述べている。このため、甲田(2009)が示すようにメタ認知を促進するような活動を課すことで訓練していくこととなる。こうした活動は、難波・牧戸(1997)のいう、メタ認知の変容をともなうモードで行われるものである。メタ認知の過程の中でメタ言語能力を利用する状況がモニタリングやコントロールの中で生じることは十分に考えられる。Tunmer and Bowey(1984)が指摘するように、メタ言語能力は、メタ認知の発達にともなって発達していく。そうであれば、メタ言語能力の育成そのものを目的とする学習活動も必要であるが、この活動が意義を持つのはメタ言語能力の利用が必要になるような状況をメタ認知の中でどれだけ遭遇するかにかかっているのではないだろうか。

書記言語教育とメタ言語能力【新規】

書記言語を中心とする公共的言語の教育では、メタ言語能力の発達を促進する、すなわち、言語知識を意識化させ、その意識を高めていく狭義の言語教育が果たす役割は大きい。これは、西尾(1967)が指摘するように、書くことに推敲という作業がともなうところが大きい。以前から、「文章を書くという段になると、日本語をハッキリ客体として意識しなければいけない」(清水1959:81)のように言われることが多い。大久保(1954)や武部・秋末(1979)など、以前から作文において文法的な誤りが目立つことという指摘もある。しかもこうした誤りは高校生や大学生になっても見られるという指摘もある(森岡1967a)。こうした誤りが生じる事実は、本能的に獲得する母語の文法が、音声言語を中心とした〈子供の言語〉や〈地域の言語〉といった「私的話し言葉」のレベルにとどまるものであることを示唆している。この点について鳴島(2004)は次のように述べている。

実際、私達は文法を身につけているにもかかわらず、一文、一文完全な形での文で考えたりしてはいない。また、話しコトバも文法的には誠に不完全である。書きコトバでの伝達よりも圧倒的に多いこうした言語活動での文法が、書き言葉での文法的な誤りを産み出す主たる原因だと思われる。(鳴島2004: 14)

この鳴島の指摘と同様の指摘が深谷・田中(1996)に見られる。深谷らは、「コトバを断片として特徴づけ、断片としてのコトバの連鎖が会話の流れを構成する」(深谷・田中1996: 95)という見方をしている。深谷らはこの断片を「チャンク」と呼び、言葉を断片として纏め上げる仕組みを「チャンキング」と呼んでいる。話し言葉が文文法から逸脱するように見えるのは、会話の発話単位が文ではなくチャンク(断片)であるからであるというのが、深谷らの主張である。こうした頭の中に文があるのではないという考え方は、Jespersen(1924: 26)の"Apart from fixed formulas a sentence does not spring into a speaker's mind all at once, but is framed gradually as he goes on speaking."にも見られる。音声言語では文を単位として話すわけではないが、書記言語では文を単位として書かなければならない。このことが、書記言語教育におけるメタ言語能力の重要性を支えているのである。

書記言語教育と言語規範【新規】

書記言語は、金水(2010)が指摘するように教育や学習によって伝承されるものである。教育や学習を通さなければ普及しない書記言語は、音声言語と異なり言語規範の問題を避けて通ることができない。音声言語、とりわけ相互了解圏における「私的話し言葉」では、言語規範を意識することは少ない。バフチン(1980)は、言語規範が話し手の意識にあるのは確かだが話し手の関心は言語形態が表すメッセージのほうにあると述べている。時枝(1941)は、「我々が他人の了解を求めようとする意識なくして、或いは他人を了解しようとする意識なくしては、我々の間に共通した言語習慣が成立することはあり得ない。」(時枝1941: 140)と述べている。相互了解圏においては、時枝の言う「他人の了解を求めようとする意識」や「他人を了解しようとする意識」を強くもつ必要はない。しかし、より公共的な書記言語では「他人の了解を求めようとする意識」や「他人を了解しようとする意識」を強くもつ必要がある。こうした意識が共同体の中で醸成されると、共同体に共通した言語習慣が確立する。時枝はソシュールを批判しているが、この言語習慣はソシュールの概念で言うところの、社会制度としてのラングである(丸山1981)。書記言語においては、このラングを教えることが必要となる。
しかし、現代日本語としての書記言語教育ではどのようなラングをどのように教えればよいのであろうか。金水は書記言語の成立について、次のように述べている。

そもそも書記言語が発生する(あるいは外部から導入される)のは、それを欲する文化的・政治的状況が存在するからに他ならない。ある程度の規模を越えた共同体を維持するためには、空間的・時間的限定性を越えた文化的紐帯が必要であり、その最も効果的な手段が書記言語の活用というわけである。(金水2007: 3)

このことからわかることは、言語規範がソシュールの言うラングのように「集団の同意によって認められてはじめて成立」(丸山1981: 268)するものではなく、権力によって強制的に与えられることがあるということである。日本でも近代における国民国家の構築に伴い、「国語」としての言語規範を確立しようとする動きが見られた(田中1999)。田中は言語規範そのものが戦前から戦後にかけて変化したものの、言語規範意識については戦前と戦後に断絶はないと見ている。田中はこのことと教育との関連で次のように述べている。

文字文化中心の今の教育で、児童・生徒の中にはその文字文化になじめず、文字文化の特権層に参入できない落ちこぼれを多く生んでいる。現実に書き言葉を駆使して文字文化の世界で「声」を持つものはほんのわずかの特権的な文化的階級である。(田中1999: 171)

田中の指摘は、言語教育における言語規範のあり方と、その教育のあり方について示唆的である。言語規範のあり方を考える方向性としてはバフチンの次の指摘が参考になる。

一方に個々の主体の意識があり、他方にこの意識にとっては争い得ない諸規範の体系の言語がある場合に、一方の主体の意識を捨象して〔話し手・聞き手がおかれている対象レベルを去って〕、文字通り客観的に、つまり傍らから言語を見る、あるいは、より正確に言えば、言語の上に立って言語を見る〔話し手・聞き手の行うコミュニケーションを認識対象とするメタレベルに立つ〕ならば、自己同一的な規範のいかなる不動の体系も見えてはこないでしょう。逆に、われわれが眼にするのは、言語の諸規範の絶えざる生成の過程でしょう。(バフチン1980: 135)

バフチンが指摘しているのは、言語規範は時代とともに変わっていくということである。ソシュールの「本来的には全く個人的な知能と意志に基づくパロールは、ディスクールという実践を通して社会関係を樹立し、ラングに働きかけてこれを変革する」(丸山1981: 274)という指摘と合わせて考えれば、言語規範は常に変化しているといってもよいだろう。ここから、教師が学習者に押しつけて言語規範を暗記させるのではなく、バフチンが言うようなメタレベルで言語規範の変遷に気づかせる教育の可能性が引き出せよう。また、同時に言語の体系を規範としてではなく、時枝の言う「他人の了解を求めようとする意識」や「他人を了解しようとする意識」に基づく方略として学習者に捉えさせることが必要であるといえよう。

メタ言語能力と言語意識教育【新規】

書記言語における言語規範を、静的で絶対的な制約でなく、動的で相対的な方略として学習者に捉えさせるためには、言語の体系に気づかせるだけでなく、言語の社会的機能にも気づかせる必要がある。言語意識教育は、言語を教えるだけでなく、言語について教えることも必要である。Hallidayは、中等教育において言語について学ぶ機会を与えるべきであると主張している(福田2007: 17)。これは学習者が母語中心主義や英語帝国主義に陥らないようにするために必要である。大津(1989)は、日本語と英語という2つの異なる言語体系を比較することでメタ言語能力の発達を促進できると述べている。しかし、そこでは言語の体系性に気づくことはできても、言語の相対性にまで学習者の意識を向けさせられるかは疑わしい。村田(1996)は、複数の言語体系を比較したときの学習者による価値判断にはさまざまなものが想定されるため、学習者の気づきだけに頼らず、教師が意識的に教える必要があると述べている。
日本における言語意識教育では、「英語をなぜ学ぶのか」や「現代社会に求められる日本語とはどのようなものか」といった問いに対する答えを考えさせる教育が必要である。このうち、英語を学ぶ理由については外国語科や英語科で扱うべきであろう。ただし、先述した金水(2010)の階層的言語観における〈グローバルな言語〉の地位を現在では英語が占めているという事実は国語科の教師も知るべきである。そのインターフェースが中等教育における国語科教育で学習対象となる〈広域言語〉であるから、英語をはじめとする欧米諸語からの翻訳が日本語に影響についても知るべきである。そして、この〈広域言語〉としての日本語を使えるようになるには、学習指導要領で言われる「社会人として必要とされる国語の能力」(文部科学省2010: 3)を身につける必要があること、〈広域言語〉が相互了解圏のなかの〈子供の言語〉や〈地域の言語〉とどう違うのかについては、国語科教師が知っておくとともに、学習者にも理解させる必要がある。

メタ言語能力の発達の促進と国語教育・英語教育

メタ言語能力の発達とその促進【前期発表分を修正】

メタ言語能力は文法の発達と関連しつつも独自に発達する(大津1989)。メタ言語能力の発達はすでに2歳前後で見られる。大津(1989)は、1歳5か月の子どもが「あめ」(雨)と「あめ」(飴)を自然な発話場面で使い分けられるようになり、この子どもが2歳2か月になると「あめが降ってるね」という問いかけに対して「ちがう、おとうちゃん、あめだよ」と返した事例を挙げている。また、Gleitman, et al. (1972)は"Mommy, is it AN A-dult or A NUH-dult?と尋ねる4歳児の事例を挙げている。
一般的にメタ言語能力は年齢が上がるにつれて高度なものに発達していく。Gleitman, et al. (1972)はL. Gleitmanと7歳の娘Clairとの会話の中で、Clair loves Clair.という言い方が前のClairと後のClairとが別人である場合に言うが、同一人物である場合にはClair loves herself.というと娘が説明したことを取り上げている。もちろん、大津(1982)が指摘するように、これは言語学者と心理学者を両親に持つ子どもの事例であるので典型的なものとは言えない。実際、メタ言語能力には個人差がある。森山(2009)は、「公園で春子さんは冬子さんと秋子さんに会いました」という文にどんな意味があるか説明を求めるアンケートを大学生と小学生に行うという調査を取り上げている。この文には「春子さんが、冬子さんと秋子さんに会う」という解釈と「春子さんが冬子さんと一緒に、秋子さんに会う」という解釈がある。この調査で二通りの意味があると答えられたのは大学生では90%であったが、3年生では3%、6年生では28%であった。
言葉の熟練した使い手はメタ言語能力が高い。この能力は先天的なものではなく、年齢が上がるにつれて発達させていくものである。母語の能力にともない母語に対する直感が働くようになる。これがメタ言語能力の萌芽であり、この直感を意識化させ、メタ言語能力の発達を促進していくことが効果的な言語運用の礎となる。しかし、現実には大人のメタ言語能力には個人差があり、先述の森山(2009)の調査からも分かるように、子どもの間にもメタ言語能力が発達している子どもとそれほど発達していない子どもがいる(岡田2005)。このため、学校教育においてメタ言語能力の発達を促進させるような教育を体系的に、そして継続的に行っていく必要がある。大津(1995)は、まず小学校段階では母語である日本語を使って、無自覚に身につけてきた日本語を客体化させることが必要であると述べている。そして中学校では英語などの外国語を使うことにより、複数の個別言語を扱うことで言語の本質をより立体的に捉えられるようになると述べている。こうした教育を実践するには、大津(2009)が提唱するように国語科教育と外国語科教育が「ことばへの気づき」を共通の基盤として有機的に連携することが求められる。

国文法教育と英文法教育との連携における問題点【新規】

「ことばへの気づき」とは、文法への気づきであるといってよい。したがって、〈ことばへの気づき」を国語科教育と外国語科教育の共通の基盤とすることは、国文法教育と英文法教育が連携することにつながる。しかし、この連携には困難な点も多い。これについては、まずは小宮(2010)の指摘が重要である。

日本人は言語上の遺伝要因と環境要因の「二重の意味で」英語から遠い位置にいると言えるであろう。日本人にとって英語は単に「外国語」であるばかりでなく、「遠隔語」(English as a Distant Language)でもあるという認識が必要であると思われる。(小宮2010: 34)

小宮のいう「言語上の遺伝要因」とは、柴谷(1981)が指摘する日本語と、英語をはじめとする西洋の言語と比べて文法体系などが非常に違っている点を指している。このため、文法教育にしても国文法と英文法はまったく無関係に教えられ、学ばれてきた(波多野1960)。また小林(2008)はこれら2つの文法教育の目的の違いを指摘している。小林によれば、国文法教育が従来文の品詞分解を目的にしていたのに対し、英文法教育は文の仕組みを理解しそれを文の理解や表現に役立てることを目的としているという。小宮のいうもうひとつの「言語上の環境要因」とは、学習者が日常的に英語が使用される環境にない点を指している。この事実は、多くの日本人にとって英語が〈グローバルな言語〉としてのみ必要とされることを意味している。そしてこの事実はまた、〈グローバルな言語〉である英語のインターフェースとして機能する〈広域言語〉としての日本語が、英語学習や英語運用の基盤となることを意味している。
〈広域言語〉としての日本語が〈グローバルな言語〉としての英語とのインターフェースとしての役割を果たすならば、〈広域言語〉とりわけ書記言語の教育としての国語教育が、その役割のひとつとして英語教育とのインターフェースとして機能させる必要がある。〈グローバルな言語〉としての英語は書記言語が中心であるから、文法訳読法(Grammar Translation Method)が方法論として依然有効である。大津(2009)は従来高等学校などで行われていた英文和訳や和文英訳がことばの構造や機能についての理解を深めるのに役立ったと述べている。ただし、この点については渡部(1988)の言説に注意を払う必要がある。

「十五、六の学生に、文法書と辞書をあたえて適当な指導をあたえれば、二、三年後には英米の読書階級が読むような本でも正確に読めるようにすることができる」と。もちろんすべての生徒がそういうふうにはならないだろうが、まあまあの程度の高校でなら二割ぐらいはそうなるのではないかと思う。(渡部1988: 13)

このことから分かることは、一般的な高校生には英文法の知識は難しく感じられるということである。波多野(1960)が英文法の知識を国文法の知識に興味を持たせるためだけに用い、学習者の英文法の力を高めたり国語の読解力や表現力の向上につなげることを意図していないのも、おそらくは英文法学習の難しさによるものと思われる。このように考えると、大津(1982, 1989, 1995)がいうような、英語の体系に触れることに日本語の体系をより深く捉えることができるという考え方は、理念としてはよいが、その方法については慎重に考えていく必要があろう。もちろん、この対策として英文法教育の方法を改めていくことも当然必要であるが、本研究では国語科教育の役割として国文法教育のあり方を見直していくことを中心に考えていきたい。

帰納的な文法教育【前期発表分に加筆修正】

国語科における文法教育の目的は、古典文法(文語文法)と現代語文法(口語文法)で異なる*4。古典文法教育の目的は古文解釈のためという一点に集約されるが、現代語文法教育の目的については意見が分かれている。これらを大きく分けると、日本語の理解や表現の能力を高めることに直接結びつけようとするものと、間接的に結びつけようとするものがある。また、両者の中間に位置づけられる立場のものや、言語学習を超えたところに目標を定めているようなものもある*5。本研究では、現代語文法教育の目的を書記言語を中心とする公共的言語の表現理解に役立て、かつ外国語学習の基盤として役立たせることとする。また古典文法教育の目的についても現代語文法教育に資するものとするために従来の目的を見直すこととしたい。
文法教育の方法には、とりたて指導と呼ばれる明示的で演繹的な方法と、学習者に文法の法則性を発見させ、気づかせる帰納的な方法とがある。本研究では、メタ認知の変容をともなう言語活動こそがメタ言語能力の発達を促進すると考え、文法を取り立てて教え込むのではなく、帰納的な文法教育の立場を取る。これには教師が言語規範を教え込むのではなく、言語規範の変遷に気づかせるという意図もある。ただし、意識化して習得した文法を、時枝(1941)の言う「他人の了解を求めようとする意識」や「他人を了解しようとする意識」に基づく方略というメタ認知的知識(方略変数に関する知識)として活用する活動は、難波・牧戸(1997)のいうメタ認知によるモニタリングとコントロールを受ける言語活動であり、メタ言語能力の発達を促進する言語活動とは別に行うこととする。その意味では、本研究の目ざす文法教育は広い意味でのとりたて指導といってよい。
本研究のような文法教育の立場は、先述の岩淵(1944)や永野(1958)など、古くから提唱されていた。明治以来文語文法中心の文法教育が1931年に口語文法も教えることに方針転換し、その目的を橋本(1946)は次のように述べている。

言語を習得させる爲には、是非文法の知識をそのまゝ授けなければならないのでなく、實際の言語になれさせるだけでもよい。しかし、文法の知識は、實際、言語の中に行はれてゐながら、明かに捉む事が困難なきまりを、自覺させ意識させるものであるが故、その言語を教授するものには是非必要なものであり、學ぶものにも之を授けた方が効果が多いのであつて、これによつて言語を正しく解し、又誤に心附かしめる事が出來る。(橋本1946: 335)※強調は発表者による

橋本は、言語運用の中で無意識的に使用される文法知識を自覚し意識化することが口語文法教育の目的であるとするのである。さらに、これとほぼ同時期の藤原(1942)のように、本研究における文法教育のねらいと非常に近い立場といえるものも見られる。

文法教科の覘ひの一つは、生徒の生活語陶冶によつて、中正雅醇な表現力の暢達を圖るにある。それは先づ彼等にありのまゝの生活語を反省させる所から始められる。次いでそこに整序の意識をはたらかしめることはやがて發表の用意である。(藤原1942: 42)

この考え方は口語文法が教えられるようになる前から存在した。山田(1923)の巻頭には、「多くの文例より推して文法上の法則を發見せしめ」と、詰め込み型の学習を避けるための配慮として文法の法則に意識を向けさせる発見型学習が提唱されている。しかし、徳田(1965)は戦前の文法教育の方法は演繹的な規範主義であり、帰納的・経験的ということも暗記の仕方の工夫程度のものでしかなかったと指摘しており、帰納的なアプローチが文法教育の主流となることはなかった。
これに対し、時枝(1963)は文法現象の観察を文法教育の目的とすることを否定し、「獲得した文法知識によつて、正しく話し、かつ読むことが出来るやうにすることが大切で、文法的知識によつて、国語の実践を、より自覚的に、より確実にすべきである」(時枝1963: 137)と主張している。国語の実践を自覚的にするということは、理解や表現をモニタリング(Nelson and Naren, 1994; 三宮1996; 難波・牧戸1997)するということであり、そこではメタ言語能力を行使することになる。問題は、そのモニタリングの前提となるメタ言語能力の発達を促進するような文法教育をどのように行うかである。時枝はこの点に対する明確な提案は行っていない。
こうした事情から、口語文法教育の目的は説得力を欠き、一般には文語文法を指導する前の準備として口語文法教育が捉えられるようになった。橋本の文法の枠組みは現在の学校文法でも根幹をなしているためもあり、こうした捉え方は現在でも支配的である。金水(1997)は文法教育の実情を次のように批判している。

学校文法に基づく古典解釈のメソッドが確立された結果、文法は完全に暗記の学問となってしまった。古典ではまだ学校文法が実効的に働くからいいのである が、学校文法の現代語文法は実は古典文法を導入するための仮構された悪しき折衷と妥協の産物であり、辞書の品詞分類以外にはほとんど役に立たない。(金水1997:122)

現状の文法教育は暗記をその学習活動の中心とし、古典文法が主で現代語文法を従とするものとなっている。本研究は、これを現代語文法を主、古典文法を従とし、その方法も、学習者による認識・理解を重視するものに改めることを提案したい。

歴史文法教育【8/30発表分に加筆】

学習者が無意識・無自覚に獲得した母語の文法を意識化するためには、外国語のような比較対照するものがあったほうが効果的なのは確かである。しかし、先述のように英文法の学習を困難に感じる学習者が多いのも事実である。日本語と英語での比較を困難に感じるのは日本語と英語で体系が異なるためではない。むしろ学習者は、日本語の分析ができていないまま英語の体系を提示されてしまうために、日英語の比較対照ができないでいると思われる。こうなると、卵が先か鶏が先かの議論になりがちであるが、日本語の中で比較対照できる体系があれば、この問題は解決できる。つまり、学習者にとって英語では浅田(1995)のいう「言語抵抗」が大きすぎるのであって、日本語の中で比較対象できる体系があれば、より小さい言語抵抗のもとで日本語の文法を意識することが可能となるのである。ここで現代日本語の文法と比較対照できるものとして思い浮かぶのが古典文法である。高木(1997)は、現代日本語の説明をする際に昔の日本語との比較・対照が有効であると述べている 。森本(1964)も古典文法の教育は現代語による思考・認識を育てることに直接役立つことを中心にすべきであると主張している。
従来の古典文法教育では中古文法が規範とされていた。しかし、現代の言語生活では文語文を書く必要は皆無であり、古典文法に規範を設けることは実用的ではない。むしろ、現代日本語について深く知る手段として、古典文法の知識を活用すべきである。森本(1964)は現代語文法と古典文法を総合的に扱った思考力・認識力を高める文法教育を提案している。
北原・阿部・松村・藤森(1986)のなかで北原は、現代語は国語史の必然であり、そうした知識が現代語を扱うためにも必要であると述べ、日本語史的な知識の必要性を指摘している。また小林(1986)や浅田(2000)は、従来のような中古文法を規範とする古典文法では「古代語」対「現代語」という二項対立の図式が学習者のなかに生じ、両者があまりにかけ離れたものと捉えられてしまうことを懸念している。これでは言語抵抗が大きすぎて、学習者の負担になってしまう。かといって、言語抵抗がゼロではメタ認知に揺さぶりが掛けられず、メタ言語能力の発達を促すことにはつながらない。この状況に対して、小林は古代語から近代語への変遷という国語史の事実を踏まえるべきと述べ、浅田はそうした歴史的変化を学習者に体感させていくほうが古文を身近に感じさせることができるのではないかと述べている。こうした指導は中古などの作品の読解だけでなく、近代文語文の読解にも有効であると言える。
古文だけでなく、漢文への関心を学習者に持たせることも必要である。外山・小海・剣持(1977)のなかで外山は「昔は日本語を書く場合、漢文に対する意識が背後にあって、それが日本語の文章の一つの骨格をなしていた。」(外山・小海・剣持1977: 13)と述べている。このため、加地(1987)は漢文学習に先立って漢文体・漢文脈の文章を学ぶことが必要であると述べている。加地は漢文読解に必要な文法知識を漢文体・漢文脈の文章に触れながら学ぶべきであると主張する。
漢文の影響を受けた表記や文体が近代まで生き続けていたことを学ぶことで、学習者は漢文学習に対する動機付けを高めていくことができる。また日本語が日本列島の中で純粋培養されて発達した言語ではなく、中国語の影響を大きく受けた言語であることを知ることにもつながる。特定の時代の言語体系のみを取り上げるのではなく、日本語の歴史的変遷に焦点を当て、日本語史を知ることで現代日本語をより深く学ぶことができるような、「歴史文法教育」が必要なのではないだろうか。

参考文献

英文文献
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  • 浅田孝紀(2000)「古典教育への近代文語文導入覚え書き」『研究紀要』38, pp.119-124 坂戸:筑波大学付属坂戸高等学校
  • 石橋幸太郎(1967)「言語教育学の構想」野地潤家・垣田直巳・松元寛『言語教育の本質と目的』(言語教育学叢書第1期1巻)文化評論出版
  • 糸井通浩(1995)「ことばの仕組み・筋道をとらえ直す−文法教育論を中心に」糸井通浩・植山俊宏(編)『国語教育を学ぶ人のために』京都:世界思想社
  • 岩淵悦太郎(1944)「国定文法教科書に就いて」『国文学解釈と鑑賞』9(4) pp.28-34
  • 大久保忠利(1954)「文章と文法−文章を書く時は、特にこんなところに注意してください−」『国文学解釈と鑑賞』19(9) pp.30-34
  • 大津由紀雄(1982)「言語心理学と英語教育」『英語教育』31(7) pp.28-31
  • 大津由紀雄(1989)「メタ言語能力の発達と言語教育」『言語』18(10) pp.26-34
  • 大津由紀雄(1995)「「英語帝国主義」はメタ言語能力によって粉砕できる」『現代英語教育』31(12) pp.20-23
  • 大津由紀雄(2006)「原理なき英語教育からの脱却をめざして 大学編」『英語青年』152(1) pp.33-35
  • 大津由紀雄(2009)「国語教育と英語教育−言語教育の実現に向けて」森山卓郎(編著)『国語からはじめる外国語活動』慶應義塾大学出版会
  • 岡田伸夫(2005)「言語理論と言語教育」大津・坂本・乾・西光・岡田『言語科学と関連領域』(言語の科学11)岩波書店
  • 生越秀子(2007)「メタ言語能力を育てる小学校国語教育についての一考察」−「伝えあう力」育成を視座に−」『全国大学国語教育学会発表要旨集』112, pp.12-16
  • 甲斐睦朗(1988)「言語感覚の概念」『国語国文学報』pp.69-76.
  • 金水敏(1997)「国文法」益岡・仁田・郡司・金水『文法』(岩波講座言語の科学5)岩波書店
  • 金水敏(2007)「言と文の日本語史」『文学』8(6) pp.2-13
  • 金水敏(2010)「日本語の将来を考える視点−言語資源論−」『日本語の将来』日本学術会議主催公開講演会 pp.2-7
  • 倉沢栄吉(1967)「言語教育の内容と方法−母国語教育の立場から−」野地潤家・垣田直巳・松元寛『言語教育の内容と方法』(言語教育学叢書第1期2巻)文化評論出版
  • 甲田直美(2009)『文章を理解するとは』スリーエーネットワーク
  • 加地伸行(1987)「「漢文なんて型だけ」か」『月刊国語教育』7(5) pp.59-64
  • 北原保雄・阿部興・松村由紀子・藤森徳秋(1986)「座談会:文法指導の問題点」『月刊国語教育』5(11) pp.26-43
  • 小林亜希子(2008)「国文法を利用した英文法教育の試み」『島大言語文化』25 pp.41-75
  • 小林賢次(1986)「近代文語文の読解と文法指導」『月刊国語教育』5(11) pp.44-49
  • 小宮富子(2010)「Tomorrow is busy.のような日本人英語は絶対に間違いか?」『英語教育』59(6) pp.34-35.
  • 佐伯胖(1985)「「理解」はどう研究されてきたか」佐伯胖(編)『理解とは何か』東京大学出版会
  • 三宮真智子(1996)「思考におけるメタ認知と注意」市川伸一(編)『認知心理学4思考』東京大学出版会
  • 森ゆりか(2004)「母語の教育がすべての基礎となる」『英語教育』53(2) pp.15-17
  • 森ゆりか(2009)「英語力の根底にあるべき母語力」『英語教育』58(5) pp.28-30
  • 柴谷方良(1981)「日本語は得意な言語か?−類型論から見た日本語」『言語』10(12) pp.46-53
  • 清水幾太郎(1959)『論文の書き方』岩波新書
  • 高木一彦(1997)「なにのための古典教育か?」『国文学解釈と鑑賞』62(7) pp.21-28
  • 武部良明秋末一郎(1979)「文章表現べからず集」『国文学』18(12) pp.183-204
  • 田近洵一(1982)『現代国語教育への視角』東京:教育出版
  • 田中望(1999)「言語規範はどうつくられてきたか」『日本語学』18(6) pp.166-172
  • 時枝誠記(1941)『国語学原論』岩波書店
  • 時枝誠記(1963)『改稿国語教育の方法』有精堂出版
  • 戸高素(1968)「口語文法と文語文法」『文法』1(1) pp.104-107
  • 外山滋比古小海永二・剣持武彦(1977)「座談会:国語教育と英語教育−い-まこそ協調のとき−」『英語教育』25(11) pp.6-13
  • 鳥飼玖美子(2010)「英語教育から見る日本語の将来」『日本語の将来』日本学術会議主催公開講演会 pp.26-30
  • 永野賢(1958)『学校文法概説』朝倉書店(改訂版1986共文社)
  • 鳴島甫(2004)「口語文法教育のあり方」『月刊国語教育』24(7) pp.12-15
  • 難波博孝(2008)「国語教育とメタ認知」『現代のエスプリ』497, pp.192-201
  • 難波博孝・牧戸章(1997)「「言語活動の心内プロセスモデル」の検討−国語学力形成の科学的根拠の追求−」『国語科教育』44, pp.154-145
  • 西尾実(1967)「言語教育学の発見」野地潤家・垣田直巳・松元寛『言語教育の本質と目的』(言語教育学叢書第1期1巻)文化評論出版
  • 日本学術会議(2010)「提言 言語・文学分野の展望−人間の営みと言語・文学研究の役割−」日本の展望−学術からの提言2010(pdfファイル:2010年9月27日ダウンロード)
  • 橋本進吉(1946)『国語学概論』岩波書店
  • 波多野鹿之助(1960)「高等学校における日本文法と英文法との対照学習」『国語科教育』7 pp.81-93
  • バフチン, M. (1980)『言語と文化の記号論』北岡誠司訳 新時代社
  • 深谷昌弘・田中茂範(1996)『コトバの〈意味づけ論〉−日常言語の生の営み−』紀伊國屋書店
  • 福田浩子(2007)「ことばの教育をどうするか−日本の初等・中等教育における言語意識教育の必要性−」『青山国際コミュニケーション研究』11, pp.5-22
  • 藤原與一(1942)「文法教育について」『コトバ』4(1) pp.39-47 國語文化研究所
  • 町田守弘(2001)「国語科教育における言語感覚−言語感覚育成のための学習指導」『日本語学』20(8) pp.26-33.
  • 丸山圭三郎(1981)『ソシュールの思想』岩波書店
  • 湊吉正(1975)「言語環境・言語感覚・言語認識」全国大学国語教育学会(編著)『国語科教育学研究』学芸図書
  • 湊吉正(1987)『国語教育新論』明治書院
  • 湊吉正(1995)「言語感覚とは何か」『月刊国語教育』14(12) pp.25-28
  • 村田純一(1996)「メタ言語能力と外国語教育」『神戸外大論叢』47(5/6) pp.37-53
  • 森岡健二(1962)「コンポジションと作文の指導」『国文学』7(13) pp.24-31
  • 森岡健二(1967a)「作文における助詞の問題」『国文学』12(2) pp.15-20.
  • 森岡健二(1967b)「言語教育の本質と目的−母国語教育の立場から−」野地潤家・垣田直巳・松元寛『言語教育の本質と目的』(言語教育学叢書第1期1巻)文化評論出版
  • 森本真幸(1964)「文法教育の現代的問題点−文語文法の指導を中心に−」『日本文学』13(4) pp.1-11
  • 森山卓郎(2009)「外国語活動を支える「国語の力」」森山卓郎(編著)『国語からはじめる外国語活動』慶應義塾大学出版会
  • 文部科学省(2010)『高等学校学習指導要領解説国語編』平成22年6月 教育出版
  • 山田孝雄(1923)『中等教育日本文法教科書上巻』訂正再版 東京宝文館
  • 渡部昇一(1988)『秘術としての文法』講談社

*1:早稲田大学大学院教育学研究科国語教育専攻「国語科教育演習(1)(町田)」

*2:松崎(1991)がこれを引用した際に「形態意識」と訳しているが、この概念を語形成などの形態論の範囲とどめてしまうという誤解を避けるため、「形式意識」と訳した。

*3:Canaleはコミュニケーションについて、"communication is understood in the present chapter as the exchange and negotiation of information between at least two individuals through the use of verbal and non-verbal symbols, oral and written/visual modes, and production and comprehension process."(Canale, 1983: 4)と、音声言語のみならず書記言語をも含む概念として捉えている。

*4:「口語文法」と「文語文法」という用語については、次の説明が参考になる。「一般に学校教育の上では、現代語の中に口語と文語、つまり話しことばと書きことばの区別があるにもかかわらず、これらを総括して「口語」と呼び、それに基づいて考えられる文法を「口語文法」といっている。そし、この口語に対し、平安時代の文語をもとにした、書くだけに用いられた明治以前のことばを「文語」といい、その上にある文法を「文語文法」と呼び慣わされている。」(戸高1968: 104)

*5:これは思考訓練などを目的とするものである。