学問としての英語?
世の中には妙な言い回しがある。その中の1つに「学問としての英語」というのがある。おそらくこの概念は、「コミュニケーションとして英語」と対立するものと思われる。後者も後者で「コミュニケーション」の英語と言っても英会話*1程度の意味なのだが、前者も前者で「学問」と呼べる代物ではない。この言葉が意味するものは、明示的な文法学習とそれに基づく訳読、もしくは訳読とそれを通じた明示的文法学習である。
このブログを以前からお読みの方であればご存じであろうが、私は訳読も明示的文法学習も決して否定しているわけではない。むしろ上手に利用することで英語力の向上に貢献できると考えている。しかし、それが「学問」なのかと言われると、私の見解はNoである。さらには、このような「学問としての英語」を略して(?)「英語学」と称する向きもあるようだが、笑止千万*2である*3。
このブログは、応用言語学をテーマとしていて、英語の統語論や意味論などを引き合いに出すこともあるわけで、その意味では「英語学」を含む内容であるかもしれない。しかし、このブログの扱うところが「学問」なのかというと、私はそうでないと思う。私がここでやっているのは英語教師が持つべき常識の探求であって、学問とはほど遠いものである。ましてや、英語の言語現象を正しく捉えているかどうかも怪しい学校英語を振りかざして、まともに読めているかどうかも怪しいテクストをつつき回すことが学問であるはずがない*4。
本来の学問のあるべき姿というのが、私にはイメージできないが、少なくとも私などよりもはるかに頭脳明晰な人たちによって営まれるものであることは確かである。しかし、残念ながら、そういう方とはまだ数えるほどしかお目にかかったことがない*5。