持田哲郎(言語教師@文法能力開発)のブログ

大学受験指導を含む文法教育・言語技術教育について書き綴っています。

「生活綴方」という発想(その1)

すべての教科の基礎としての国語力、英語力の基礎としての日本語力

「生活綴方」というと、教育史や受験日本史で出てくる概念・用語というイメージしか浮かばない人が多いかもしれない。しかし国分(1962)に見られるように、綴方はすべての教科の基礎としての国語力の中核を形成しうる学習活動である。真にすべての教科の基礎としての国語力というものは、英語力の基礎としての日本語力としても機能するものである。そこで国分(1962)を中心に生活綴方について考えていくことにする。

生活綴方における題材

「生活綴方」は、その用語のために児童・生徒が生活経験を書く「生活記録的文章」のみを扱う印象を抱かれがちである。しかし国分(1962)では綴方における文章表現の題材として、次のようなものを挙げている。

  1. 生徒を取り巻く生まの自然や社会や人間や文化ととっくませ、その地点で、捉えた事実、発見したこと、確認したこと、感動したこと、疑問に思ったこと、追求しようとしたこと、願望したこと。
  2. 学校教育の学習活動の中で学んだ科学の知識や法則、芸術上の真実などが生徒の内部で生きる力となり、その力をもって、生きた自然や社会や人間とぶつかったときにとらえたもの。
  3. 他教科や教科外での活動、また学校外の生活の中で、文化的な活動、学習活動などをしてえた知識・見解・信念・感動を実生活のなかの具体に生かしたとき、生かそうとするときに考え感じたこと。(国分1962:20)

ここから、物事の「見方・考え方・感じ方」を伸ばすための指導であることが伺える。「思ったことを書く」というときの「思ったこと」というものを体系的に捉えたものと見ることもできる。

生活綴方における文章表現

題材から文章化するプロセスについて、国分は次のような指導を提唱している。

  1. 文章の制作は、自己の思想を形成する認識的活動と、その思想を文章の上に誰にもわかるように定着させるように定着させる表現活動であることを自覚させ、つねに自己をとおして、自分のコトバで書くこと。
  2. 観察したことをよく想起したり、書くさまざまなことを頭に鮮明に表象したり、論理のすじみちをとおすようよく思考しながら書くこと。
  3. 文章の組みたて(構想)をよく考え、コトバとコトバ、文と文、文章の各部分が論理的にととのっているように書くこと、事物の姿やうごきが、ハッキリとした映像として読み手の頭に描かれるように書くこと。
  4. 表現意欲のちがいにより、具体的に、ときには概括して抽象的に、また具体と抽象を両方まじえて書くことなど。(国分1962:20)

ここから、綴方が、文章を書くことをコミュニケーション活動の一形態と捉えていること、読み手や文章の目的を考慮するレトリックの視座に立っていること、分かりやすさを追求するために論理を重要視していることの3点が伺える。文章表現をコミュニケーションの手段として捉えることは長野(1996)などにも見られ、テクニカルライティングを扱う高橋(2004)では「わかりやすい文章=論理的な文章」という捉え方をしていることから、綴方の方法論が現代にも通用するものでるといえる。

生活綴方から日本語の意識化へ

国分は、生活綴方の国語教育における位置づけについても言及しており、表現活動のなかで日本の文字・表記、日本語の発音・語彙・文文法・テクスト性・文体などの知識を確実にすることができると述べている。清水(1959)は、文章を書く際には日本語を自分の外部に客観化して日本語を明瞭に意識化する必要があると指摘しているが、その意味で綴方は英語学習の基礎となる日本語力を身につけるうえでも有効な学習活動であるといえる。
ただし、清水も文章表現における文法知識の重要性を外国語学習を通じて知ったことを認めている。このことから日本語の文章表現の指導は従来の国語教師ではなく、外国語の指導経験を持つ教師の方が適切なのかもしれない。もっとも国分や清水の時代よりも現在は日本語の文法研究が進んでいるため、そうした知見を取り入れていく柔軟さを国語教師が持ち合わせていれば、十分に「現代版綴方教育」を実践できるのかもしれない。

その2」は2年以上後のエントリーになります。

参考文献

  • 国分一太郎(1962)「生活綴方について」『国文学』7(13) pp.19-24.
  • 長野正(1996)『文章表現の技法』国土社.
  • 清水幾太郎(1959)『論文の書き方』岩波書店
  • 高橋昭男(2004)『日本語テクニカルライティング』岩波書店