持田哲郎(言語教師@文法能力開発)のブログ

大学受験指導を含む文法教育・言語技術教育について書き綴っています。

日本の学者は解る論文が書けない?

「しゃべり軽蔑意識」

澤田(1983)は論文作法をレトリックの視点から捉えているが、日本人の学者が英語の論文をうまく書けない理由として、しゃべることへの嫌悪・軽蔑ということを指摘している。そもそも学者がうまく論文を書けないということが事実かどうかの判断を早急にすることはできないのだが、外山(1987)も学者の悪文について言及していることから、そうした傾向が皆無ではないことは間違いなさそうである。
では、澤田の指摘する「しゃべり軽蔑意識」というのは本当に存在するのであろうか。これは厳密に言えば、「話すこと」と「しゃべること」の区別ができていないまま、オーラル・コミュニケーション全般に対して否定的なイメージを持つ知識人が多いということになるのではなかろうか。『広辞苑』を引くと「しゃべる」の語義として、「口数多くぺらぺらと話す」を挙げている。この「ぺらぺら」が軽佻浮薄なイメージを醸し出しているようである。

口頭文化と文字文化の連続性

澤田によれば、ヨーロッパでは伝統的に口頭文化と文字文化が連続的に捉えられているのに対して、日本では特に英語教育において両者が切り離されて扱われる傾向があるという。この傾向の背景には、一般に言われるような英語教師の英語運用能力不足も否定はできないが、国語教育の段階で国語(日本語)が音声言語と文字言語を切り離して扱ってしまっていることも見過ごすわけにはいかない。さらにここで問題になっている音声言語や口頭文化というものは、だらだらとしゃべることではなく、秩序ある対話を意味することを忘れてはならない。秩序ある語りが秩序ある文章と密接な関係ある。これが澤田の言う西洋のレトリックである。

「日常会話」との整合性

口頭文化と文字文化を連続的に捉えると言っても、日常英会話と読書を同列に扱うことにはならない。ここから得られる示唆とは、難しい内容を文章として読み、書くには、難しい内容で会話ができることとと平行した学習が望ましいのではないかというものである。事実「訳のわからないことを書いている」という自覚よりも、「訳のわからないことを言っている」という自覚の方が、意識しやすいものである。その意味で、国語教育も英語教育も4技能をトータルで扱うことの重要性について、検討すべきであるといえる。

参考文献