凡庸たり得ない不幸
これはかつて予備校の教壇に立っていた経験を持つ哲学者、入不二基義氏が予備校講師について指摘したことである。大学受験予備校の講師はつねに、「高校の授業との差別化」の呪縛から逃れられないでいる。これが進むと「他の予備校講師との差別化」の呪縛に囚われることになる。こういう行使に限って「本質論」を生徒に語ったりする。だが、本質が語る講師によって変わることなどありえない。
高校の授業との差別化は容易であり、また困難でもある。一流の高校の一流の教師は受験対策をしているわけではなく、本来の英語の授業をしていながら、結果的に受験対策もできているというふうになるものである。こうした先生の授業との差別化は生徒にとって有害な場合もあり、困難と言わざるを得ない。しかし、高校の授業はそういう授業ばかりではないから、差別化はたいていの場合は容易であるとも言えるのだ。
一方、差別化に批判的な予備校講師もいる。差別化は生徒のためにならないという。自分たちが受験の時にやっていなかったことを後知恵として身につけ、それを生徒に提示するのは欺瞞的だとまで言う。しかしどうだろうか、予備校講師が己の受験体験を客体化して語るだけで務まるのであれば、大学生が教壇に立てば十分ではないのか。もしそれが可能であれば、予備校は学生を安い時給で雇って講師に仕立てればよいことになる。名門進学校の生徒が集まる上位クラスを担当することがステイタスとされているこの業界では、ひょっとしたらそういうレベルで予備校講師が務まるのかもしれない。そんな気もするのだ。