持田哲郎(言語教師@文法能力開発)のブログ

大学受験指導を含む文法教育・言語技術教育について書き綴っています。

暗黙知

言語研究者と実務家の隔たり

現在、通翻訳や国際取引業務などに携わる人の多くは、その英語力の基盤をいわゆる規範文法を学習することで築いている。こうした人たちは理論言語学者の言語観に対して批判的であることが多い。たしかに、生成文法では、その研究対象を「言語能力(言語知識)」というモジュールに絞り込み、その結果、統語論を中心とした研究戦略をとっている。半世紀にわたる生成文法の進展によって、言語の、少なくとも英語の統語構造の分析・記述は精緻化した。だが、同時に文法の統語論以外の領域や、言語と文化や社会との関わりという問題は言語研究の「主流」からは切り離されることとなった。
規範文法は現状の学校文法のベースとなっているものである。規範文法は荒削りで不可分な形ではあるが、統語論のほかに意味論なども取り込まれていて、実用本位の体系化が試みられていた。しかし、こうのような文法知識を実際の言語技術にどう結びつけていくかという段階になると、学習者の自助努力と試行錯誤にゆだねられることになる。また、学習の初期の段階においては、規範文法は用語の難解さなどから学習者にある種の高踏性を与えているのも事実である。つまり、以前にも書いたが*1、規範文法やそれに基づく学校文法は、頭のよい学習者にはよいが、一般の学習者には敷居が高いのである。

文法の限界と言語外知識の重要性

文法が万能ではないということも、我々は留意しておかなければならない。例えば、アメリカやイギリスなどの文化、英米法、キリスト教といったことに対する理解がなければ、英語を適切に使うことができないことが多い。英語は英米人だけのものではない、という意見もあるが、その場合は英語が英米以外の文化と結びつき、世界各地の法制度と関わり、他の宗教の影響を受けるのである。いずれにしても、文法知識と実際の言語使用との間には多くの「暗黙知」が存在するのである。
では、我々はこうした暗黙知暗黙知として放置してよいのだろうか。暗黙知はどこまでも暗黙知であり、これを人間社会からゼロにすることは不可能であろう。しかし、すべての人が教育を受ける権利を有する社会において、知識は授けてあげるからあとは好きに応用してね、という姿勢では、あまりに無責任ではなかろうか。教師は暗黙知の百分の一でも、千分の一でも、一万分の一でもいいから、それを明らかな形にして学習者に提示できるように努めることが必要である。*2

*1:http://d.hatena.ne.jp/ownricefield/20070109#p1や、http://d.hatena.ne.jp/ownricefield/20061025#p1を参照されたい。

*2:研究者、実務家、教師。なぜ交流が持てないのだろうか・・・