持田哲郎(言語教師@文法能力開発)のブログ

大学受験指導を含む文法教育・言語技術教育について書き綴っています。

国語教育における文法教育と文法研究

日本語関連諸分野における対話の幕開け

日本語学会春季大会では「文法研究と文法教育」と題したシンポジウムが催され、国語教育・日本語教育・日本語学の各分野で研究に従事するパネリストが集まった。このシンポジウムの趣旨のなかで司会者の仁田(2006)は、日本語を使えるということと、日本語をより的確に使えるということの違いについて言及している。そして母語話者が通常意識しない言語使用の規則性に気づかせることの必要性を指摘している。
こうした指摘を受け、砂川(2006)は日本語教育の立場から、文法規則の意識化には大方の教師・研究者の賛同が得られるものの、文法規則を明示的に指導すべきかという点に関しては賛否両論があると述べている。一方、国語教育の立場からは山室(2006)が明示的な文法学習を無用と考えている学習者や明示的な文法指導を困難と感じる教師が多いという事実を指摘している。それでも山室は日本語教育の成果を文法教育に援用していくことで文法教育を役に立つものにしていくことができるという立場になっている。
森山(2006)と鈴木(2006)は、ともに日本語研究の立場からこの問題を論じている。両者とも明示的文法指導の有効性をおおむね認めている点では共通しているものの、文法の扱いに関しては開きがある。森山は研究者レベルで明らかではないものは、学習者に対して明示的な提示を避けるべきであるという立場をとる。これに対して鈴木は研究者が厳密に記述すべき文法と学習者に提示すべき文法とを区別し、典型的な文法概念を扱うべきであるという立場をとっている。
国語教育における文法学習の目的に関しては、山室や森山がメタ言語能力の育成に主眼を置いているのに対して、鈴木は言語運用能力の育成を第一の目的としている。

私的総括と考察

森山と鈴木のあいだに見られる立場の違いは、「学習文法」の定義の違いといえる。森山が教授者文法(teacher's grammar)を主に論じているのに対して、鈴木は学習者文法(learner's grammar)を論じている。この違いを踏まえずに教育現場に向けた提言を行うということは英語学・英語教育でも頻繁に見られることであるが、これは教師、すなわち臨床側がこの違いを踏まえて研究成果を援用すればよいだけのことである。実際、司会の立場から仁田が、文法研究者はどこまでが明らかになっていて、何がまだ分かっていないのかをはっきりさせること重要であると述べている。現場の教師は文法研究者に何でもお任せにしてしまうような甘えを断ち切らなければならない。日本語であれ、英語であれ、文法研究者によってもたらされる知見はまず、教師によって教授者文法に取り込まれるものである。
現状ではまだ、最新の日本語研究に基づく学習日本語文法を前面に押し出した形でのカリキュラムは未整備である。カリキュラムを構築し、それに基づく教材を制作し、現場の教師に周知させていく必要がある。それには国語教育においても応用言語学を担う教師が必要である。さらに森山が指摘しているように、国語教育における学習文法は外国語の学習にも関連させる必要がある。外国語教師は母語の明示的知識を持つことが必要であり、母国語教師は外国語の明示的知識を持つことが必要である。このブログで国語教育や日本語文法に関心を向けているのもこのためである。また文法学習の第一の目的は、仁田の言うような「日本語を的確に使う」ことに役立たせることあり、その過程でメタ言語能力を培い、外国語の学習の基盤となっていくことが望ましいのではなかろうか。

参考文献

  • 森山卓郎(2006)「文法研究と文法教育との接点−日本語研究の立場から−」『日本語学会2006年度春季大会予稿集』pp.29-32.
  • 仁田義雄(2006)「文法研究と文法教育 本シンポジウムの趣旨」『日本語学会2006年度春季大会予稿集』p.19.
  • 砂川有里子(2006)「文法研究と文法教育との接点−日本語教育の立場から−」『日本語学会2006年度春季大会予稿集』pp.25-28.
  • 鈴木泰(2006)「学校文法の立場の本質的な問題点について」『日本語学会2006年度春季大会予稿集』pp.33-36.
  • 山室和也(2006)「文法研究と文法教育との接点−国語教育の立場から−」『日本語学会2006年度春季大会予稿集』pp.20-24.