持田哲郎(言語教師@文法能力開発)のブログ

大学受験指導を含む文法教育・言語技術教育について書き綴っています。

和文英訳再考(その1)

和文英訳批判

英語が書けるようになるために和文英訳が有害であるとの主張をよく目にする。松本(1965)では、和文英訳の弊害について、日本文を分析した結果をそのまま逐語訳として一対一で英語に置き換えることで英語の語義や語法を無視した英文ができてしまうことを指摘している。伊藤(1995)では和文英訳そのものの意義は否定こそしていないが、日本語と英語が一対一で対応するというのは幻想であり、日本語と英語のideaを対比させて学んでいくことが大切であると説いている。
松本や伊藤の和文英訳批判が日英語の意味や語法の対応の観点から行われているのに対して、コミュニケーションの観点からの批判もある。橋内(1995)は、和文英訳では他人が書いた文を文法と語彙の知識によって訳すことになり、自分の考えを書くこととは本質的に異なると指摘している。上村(1993)の批判も同様で、さらに和文英訳で扱う素材が1文単位で文章の展開や構成を学ぶことができない点も指摘している。
中尾(1991)には、和文英訳に反対の立場からの意見が数ページにまとめられている。そこにはここですでに挙げた指摘のほかに、文脈や場面から切り離された断片的な日本語が与えられることが多いため訳出が困難になること、日本語の干渉に陥るおそれがあることなどが挙げられている。

和文英訳批判」への批判

ここでこれらの批判について考察していく。学習者が自分で考えていることを英語で書けるようになることを学習の目標のひとつに据えることは決して間違ってはいない。しかし文が書けない学習者が文章を書けるようになるはずがないのもまた自明であろう。文を書きつづれるようになるための学習活動として和文英訳を利用するのは決して有害ではないというのが私の立場である。
和文英訳では文レベルでの日本語の正確な理解が求められる。統語構造の分析も必要である。こうした作業は国語の授業では、少なくとも現代文読解の領域では行われない。このため和文英訳での日本語文分析は国語力の育むうえでも有効であろう。分析した結果から英文を組み立てる際には、教師が日本語と英語の似ているところ違うところを学習者に気付かせればよい。和文英訳はそれに気付かせる絶好の機会と捉えるべきである。日本語と英語の結束性の現れ方の違いに気付かせるために少しまとまった文章を訳させるのもよいだろう。要は和文英訳がライティング指導のすべてになることがないようにすればよいのである。
問題は、英語教師が日本語の知識を持つ必要があるにもかかわらず、その必要性を感じている教師が少ないことである。学習指導要領も日本語からますます離れてしまっているが、仮に日本語をまったく使わない英語授業が行われたとしても、学習者の頭の中には日本語があるのだ。無意識な学習だけでは日本語からの干渉はむしろ大きくなる可能性すらある。このため、日本語と英語の違いを意識的に学習させる必要がある。そのときに和文英訳が英文和訳と同様に一定の役割を果たすことになるのだ。

参考文献

  • 橋内武(1995)『パラグラフライティング入門』研究社.
  • 伊藤、ケリー(1995)『使える英語へ−学校英語からの再出発』研究社.
  • 松本亨(1965)『英語の新しい学び方』講談社現代新書
  • 中尾清秋(1991)『英文表現の基本と実際』研究社.
  • 上村妙子(1993)「英語を書くコミュニケーション」橋本満弘・石井敏(編)『英語コミュニケーションの理論と実際』桐原書店

パラグラフ・ライティング入門

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使える英語へ―学校英語からの再出発

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英語の新しい学び方 (講談社現代新書 (52))

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英文表現の基本と実際

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