持田哲郎(言語教師@文法能力開発)のブログ

大学受験指導を含む文法教育・言語技術教育について書き綴っています。

「評論文」とは何か(その2)

「よい評論の条件」

長谷川(1973)は、「よい評論の条件」として、次のような点を指摘している。

  1. 論旨の組みたてや文章が、設定された読者対象の理解と享受に適合している。
  2. 明確な主題を持っている。
  3. 主題によって素材が吟味され、選択と整理をへている。
  4. 文と文との連結が明確であり、論理構造に矛盾がない。
  5. 段落の構成が主題の展開を効果的に具現している。
  6. 用語や表記が適切であり、修辞上の工夫がこらされている。
  7. 個性的である。
  8. 推敲されており、余分な遊びの部分がなく、必要にして十分な記述であり、緊密であること。
  9. 新鮮な筆触を持つ。(長谷川1973:224)

これは、ある意味、評論文のプロトタイプと言えよう。長谷川はこの指摘の後に「評論の書き方」を続けていることから、書き手にとっての規範を提示しようとする意図があったものと思われる。このような「ラング」に対して、「パロール」である現実の評論文がこれに沿ったものなのかどうかには長谷川は触れていない。
ただ、ここに指摘されている点のうち、「個性的である」ことと「新鮮な筆触を持つ」の2点を除けば、「よい文章の条件」を挙げているのと変わらない。こう考えると、個性的で筆触が新鮮であることが評論文の成立条件ということになるのかもしれないが、個性や新鮮さのために評論文の他の規範(≒よい文章の規範)を逸脱してしまうことも考えられる。これでは評論文のプロトタイプというものがきわめて不安定なものになってしまう。

記述型と主張型、展開型と凝集型

長谷川よりも、ややパロールとしての評論文に近いところを捉えているものに、吉田(1968)がある。吉田は評論文の展開法を記述型と主張型、展開型と凝集型という軸によって分類することを試みている。記述とは現象を中性的に分析し、記述することであるのに対し、主張とは当為の呼びかけを中心とするものである。すなわち、あるものがどのようなものであるのかを述べていくのが記述型であり、あるものがどうあるべきだとか、だれが何をすべきだとかを訴えるのが主張型である。前者を説明文、後者を論説文と言い換えることもできよう。
これに対して、展開型と凝集型の違いはこうである。展開型は序論から結論に向かって論理を組織的に用いて進んでいくのに対して、凝集型では論理性が後退し、1つの観念や思想についてのイメージを述べていくために、詩的、文学的という印象すら与えてしまう。吉田によれば、凝集型評論文の典型が小林秀雄であり、多くの文芸評論家が小林の影響を受けているという。

結局、評論とは何なのか

以上、手元にある文献をもとに「評論文」について考えてきたが、明確な定義が得られたという感触は残念ながらない。ただ、評論文が必ずしも論理関係が明示的な文章ばかりではないということ、少なくとも主観性の濃淡によって分類が可能であることは分かった。だとすると、私が現代文講義で提示している解法が、方向性としては間違ってはいないということになる。このあたりはまた改めて論じてみようと思う。

参考文献

  • 長谷川泉(1973)「文学の文章 評論」『国文学』18(12) pp.223-228.
  • 吉田熈生(1968)「評論」『国文学』13(2) pp.43-48.