持田哲郎(言語教師@文法能力開発)のブログ

大学受験指導を含む文法教育・言語技術教育について書き綴っています。

都立高校入試問題に思うこと

「正しく読み取る」とは何か

平成24年度東京都立高等学校入学者選抜学力検査の「国語」では、出題の方針を「国語を適切に表現し正確に理解する能力をみるとともに、伝え合う力や思考力及び想像力を総合的にみる。」としている。現在公開されている問題のうち、問題文本文の掲載されているものに大問4がある。宮原浩二郎『論力の時代』からの引用である。ここで気になることは、「自分の言葉」をめぐる叙述を追いながら、「自分の言葉」を捨象した、宮原の言葉を借りれば「没個性的な」言葉の羅列による選択肢を選び、最後に「自分の言葉」についての作文を書くという設問になっていることである。大問4のねらいは、「説明的な文章により、叙述や文脈などに即して、語句や文の意味、文章の構成及び要旨などを正しく読み取る能力をみるとともに、考えが正確に伝わるように構成を工夫しながら、相手や目的に応じて自分の意見を論理的に表現する能力をみる。」となっている。「自分の言葉」を捨て、入試問題をドライに解答することが、果たして「正しく読み取る」ことになってるのだろうか。
ここで求められるのは、「自分の言葉」で語られているものとそうでないものを読み比べさせ判断する能力を問うことと、受検者自身の「自分の言葉」をみることではないであろうか。宮原の言説に従えば、受検者の「自分の言葉」は必ずしも論理的なものではないのかもしれない。しかし、そうした言語活動が実践できるには、引用文を「正しく読み取る」ことが前提となるはずである。もちろん、論理性の担保とその人らしさの両立ができるようにすることも国語科教育の仕事である。もしそこまで問うならば、200字ではなくもう少し長い文章で評価すべきかもしれない。また、こうした考えとは異なり、「問題文の内容は関係ない。読めているかどうかを純粋に問うのだ」という考えもあるかもしれない。しかし、内容が関係ないのなら、そもそも読むという行為が成立しないのではないだろうか。
国語科教育は言語教育である。しかし、言語だけ学んでも読めず、書けず、聞けず、話せずということもまた事実である。何かを読みとり、何かを書き、何かを聞き取り、何かを話すことが言語活動であり、その連鎖が言語生活である。