持田哲郎(言語教師@文法能力開発)のブログ

大学受験指導を含む文法教育・言語技術教育について書き綴っています。

『中等国文法別記口語編』を読む(その2)

文法と言語観

時枝(1950)は、当然ながら彼の言語過程説と呼ばれる言語観によって構成されている。この言語観は、「言語をもって、話し手(言語主体)が自己の思想を音声又は文字によって外部に表現する話し手の心のはたらきそのものであるとした」(1-2)という主張に端的に現れている。純粋に言語理論として見た場合に言語過程説に不備があることはよく知られるところである。しかし、言語教育・言語学習のために学習文法を構築する際に、準拠枠の中枢に位置すべき言語観として、言語過程説は直観的に納得のいくものである。この言語観に立てば、「文法のための文法」と非難されるような文法指導はあり得ないからである。

話し手・聞き手・事柄

話し手はつねに誰かに向かって話をする。自明のことであるようで、言語教育・言語学習において、この自明なことが反映されているかというと、そうでないことが意外に多い。時枝は聞き手の身分・年齢・年齢・性別、さらには話し手との距離などの話し手の話し方に影響することを指摘している。
話す内容に関して、話し手はそれを客体化したうえで表現すると、時枝は説く。この考えは言語学としては決して珍しいものではない。言語において「意味」と「指示対象」とを区別するのはむしろ常識ですらある。ただ、日本語においては聞き手のことを「あなた」「きみ」「お父さん」などのようにさまざまな表現を使い分けるという事実から、この点を意識しやすいのである。
時枝は言語の成立する条件を一般に「主体・場面・素材」としているが、時枝(1950)のように「話し手・聞き手・事柄」という言い方にするとぐっと分かりやすいものになる。これもまた、「場面による制約」なのである。それにしても、1950年代に出版された文法書の解説書に、コミュニケーションの非言語的要素に言及していることは注目に値する。日本語研究者による時枝批判は、日本語の言語現象の記述という面からなされることが多い。しかし、言語教育・言語学習の拠り所となる応用言語学の立場からは、もっと別の評価をしてもいいのではないかと、常々思っている。

参考文献

  • 時枝誠記(1950)『中等国文法別記口語編』中教出版.