英語力以前の「日本語の書く力」
自己表現の内容
英語の上達のためには、英語で考えることが重要であると言われる。これに対して杉田(1994:37)は、「日本語による表現能力や、会話をすべき内容もない人に英語で考えさせるのは無意味ですし、本末転倒です」と述べている。杉田はまた、知的なコミュニケーションには思考のための強い道具としての母国語が必要であると指摘している。
同様の指摘は、寺島(1986)にも見られる。寺島は自己表現の内容を作り上げる力は母国語であるにもかかわらず、国語教育において「書く」という領域が重要視されていないことを批判している。日本語で自由に想像して書くという訓練を受けていなければ、英語でも文章が書けないのは当然と言えよう。
「何かを述べよ」
岡田(1991)は受験小論文の参考書であるが、そこには次のような例題がある。
何かを述べよ。
岡田はこうした問題が日本では過去の入試問題などで出題されたことがないと断っているものの、この例題をもっとも小論文の最も基本的な問題として位置づけている。
確かにこの問題は基本である。よく「日常会話くらいできるようになりたい」という人がいるが、この問題に答えられないようでは暇つぶしのためのおしゃべりすらできないことになる。国語教育が言語技術の習得よりも、学習者の思考や感情に訴えることを優先していたとしても、「何かを述べよ」という問いに答えられないようであれば、いずれにしても成果をあげているとは言えず、寺島の批判は妥当なものと言わざるを得ない。
しかし、「英語」の授業で日本語の文章表現や日本語会話の技術を扱う余裕はない。学校教育においては当然であり、学校外教育においても「英語」を学ぶために費用を払っているのに「日本語」を教えられたのであれば返金騒動になりかねない。このように考えると国語教育のなかで、基本的な言語技術について学ぶ機会を確保する必要があると言えよう。