持田哲郎(言語教師@文法能力開発)のブログ

大学受験指導を含む文法教育・言語技術教育について書き綴っています。

「国語力」が大事というけれど…

「すべての教科の基本」としての国語力

学校教育において、「国語力はすべての教科の基本」と言われることが多い。また小学校への英語教育の導入に反対する理由のひとつに「国語力の養成を重視すべき」という声が聞かれる。確かに日本国内の教育活動・学習活動において使用される言語は主に日本語、それもいわゆる標準語であるから、それを国語教育で身につけることは理に適っていると言える。しかし、学習や社会生活のための「道具」という観点から国語教育が十分に行われているとは言えない。

国語教育に対する批判

丸尾(1983)は当時の国語教育への反省の観点から、時枝誠記の国語教育観を取り上げている。時枝は国語教育を知識・技能を効果的に習得させるための言語技術をい教え、訓練するものと考えている。「国語力はすべての教科の基本」という考え方は時枝のこの考え方を踏まえてのものであると言える。時枝の国語教育観は1940年代の国語教育を批判した際に唱えられたものであるが、丸尾は1970年代に文部省の教科書審査官が同様の批判をしていることを指摘している*1
確かに文章の読みを通じて生徒の思考力、判断力、批判力を養うことも必要である。しかしこうした能力を獲得するためには、まず文章が読めなければならない。自力で文章が理解できるからこそ、自力で思考し、判断し、批判することができるようになるのである。

英語教育に関わる問題

寺島(1986:32)は、「国語教育と連携し、母国語の力を強める方向で英語教育が行われるならば、生徒の表現力は一層のびると信じる」と述べている。これは読解力においてもあてはまる。門田・野呂(2001)は、第二言語の習熟度が高い場合は第二言語の読解力は第一言語の読解力に比例することを指摘している。門田・野呂が言う「第二言語の習熟度が高い場合」とは学習目標言語の文法や語彙の知識をある程度習得している場合を指す。寺島(1986)が外国語の文法能力は母国語の文法能力を土台として成り立つと主張していることも踏まえて考えれば、英語の運用能力は日本語のそれを前提とすることは間違いなさそうである。
日本人英語教師が日本人学習者に英語を教える場合は、日本語に関心を持たざるを得ないが、国語教師が日本人学習者に国語を教える場合には、日本語以外の言語を考える必要はない。しかも日本に長く住む日本人が日常生活で日本語に困ることはまずない。問題の根源はどうやらこの辺りにあるのかもしれない。

参考文献

  • 門田修平・野呂忠司(2001)『英語のリーディングの認知メカニズム』くろしお出版
  • 丸尾寿郎(1983)「『国語表現』に期待するもの」『言語生活』374 pp.34-43.
  • 寺島隆吉(1986)『英語にとって学力とは何か』三友社出版.

*1:最近の国語教育の状況を把握できていないので、どなたかご教示いただければ幸いです。