持田哲郎(言語教師@文法能力開発)のブログ

大学受験指導を含む文法教育・言語技術教育について書き綴っています。

「反理論言語学」としての学習文法

言語理論研究への同調と逆行

生成文法の研究が進展したことによって、言語習得と言語運用のための理論である応用言語学は、そうした進展に対して同調と逆行という相反する対応を同時にとることが要請されている。同調とは、普遍文法の解明が第二言語獲得研究に貢献することで、そこから言語習得に対して示唆するものを援用していくこと。逆行とは「こころの理論」を追求する生成文法が切り離した文法以外のモジュールを含めたコミュニケーション過程を捉え、コミュニケーションを実現するための言語知識の記述と学習者への提示を検討していくことである。
国語学習において学習文法は、目標言語でのコミュニケーションを実現するための言語知識である。酒井(2002)は意味論から言語の本質を明らかにしようとする試みには限界があると指摘する。実際、意味論や語用論、さらには社会言語学までを取り込んだ生成意味論が崩壊したのはこのためである。しかし統語知識だけではコミュニケーションが実現しないことは事実である。話し手や書き手は自らの考えや感情を言語記号化し、聴き手や読み手はその言語記号を解釈する。この過程の実現に貢献する言語知識が学習文法なのである。

教授法全盛期と変わらぬ姿勢

田中(1997)は、教授法(a method)は一般に、何を、どう教え、その効果をどう評価するかという問題に取り組まなければならないと述べている。このため教授法は特定の理論に原理的な裏付けを求めた。こうした教授法は生成文法の提唱されてからは理論的な支柱を失って衰退していった。
教授法のなかには現在でも応用可能なものが少なくない。このため大学の教職課程で行われている「英語科教育法」の授業でも、教授法の歴史的変遷について教えられることが多い。一方、「英語学概論」のような言語学の基礎を扱う授業も教免法上の法定科目に相当するにもかかわらず、言語学の知見をどのように英語教育に活かしていくかという点に関しては触れられないことが多い。このため言語学に詳しい教師であっても、自分の学んだ理論をそのまま教室に持ち込んでしまったり、授業を見直すために他にどのような理論が必要なのかが見極められないことが多い。多くの場合、応用言語学的な視点が欠けていて、特定の言語理論に依拠するか否かという二項対立に陥っているのである。

「文法好きための文法」からの脱却

教師自らが関心を持つ言語理論をそのまま教室に持ち込んだ場合、文法好きの生徒の知的好奇心をくすぐることができる。しかし効能はそれだけである。もちろん文法自体に学習者が興味を持つこと自体は悪いことではないし、知的好奇心がない人よりもある人の方がいいのは確かである。しかし外国語教育・学習では、目標言語が使えるようになることが優先されるべきであり、その手段としての文法が知的好奇心の対象としてしか機能しないということがあってはならない。
そのためには「言語学=文法」という視点ではなく、言語教育・言語学習のために文法も大切で、よりよい言語教育・言語学習のために言語学も大切である、という視点に立って、学習文法を、そして英語教育を見直していく必要がある。

参考文献

補足:「学習文法」という用語について

learning grammarとteaching grammarの区別が明確に反映できる用語が適切であると考えると、「学習文法」という用語はやや曖昧な感じがあります。「教育文法」という用語を用いる人もいますが、日本語の「教育」という言葉が英語のeducation, pedagogy, teachingなどの複数の語に対応するため、曖昧さの解消にはつながらないと考えます。
私見では、learning grammarを「学習文法」、teaching grammarを「学習文法理論」と呼ぶべきではないかと考えています。teaching grammarには「理論」と呼ぶにふさわしい体系性が必要で、応用言語学の中心的な理論のひとつとして位置づけるべきだと考えます。