持田哲郎(言語教師@文法能力開発)のブログ

大学受験指導を含む文法教育・言語技術教育について書き綴っています。

怨念

言語の恨みは恐ろしい

自分が英語ができないのは学校の英語教育が悪いからだという言説が流布している。パタンプラクティスをしよう。自分が漢字が読めないのは学校の国語教育が悪いからだ。自分が歌が上手に歌えないのは学校の音楽教育が悪いからだ。自分が味噌汁を作れないのは学校の家庭科教育が悪いからだ。これらも大人としてはできた方がいいに決まってるのだが、冒頭の英語の言説だけが高頻度で現れるのが現実である。
私だって、怨念を抱いてないと言えば嘘になる。中学の国語教師に教科書準拠のワークブックの問題をそのまま定期試験に出すと言われて、私はその答えを丸暗記する勉強を続けたら卒業の頃には国語ができなくなっていた。高校の国語教師には漢文の授業のときに「始めます」「読んでみます」「訳してみます」「書き下してみます」「終わります」の5つの言葉しか発しない人がいた。こうして高3の時点で国語の偏差値が35になったのである。

リベンジのかたち

恨み辛みは生産的ではない。だが、教えることについての知識や経験がなければ、学校教育への恨みは恨みで終わってしまう。私はたまたまものを教える仕事をしているので、人の振り見て我が振りを直す努力ができるが、一般の人はそうもいかない。そうもいかないのだが、今は恨みを発信するメディアだけは整備されている。恨みを語ることは自由にできる時代なのだ。
だが、知らないことを語ることで自分を貶めることもあることも我々は心得ておかなければならない。今は情報が水平化し、その分野の大学教授でもなければ知り得ないような知識や情報は少なくなっている。分からないことはよく調べて、情報収集なり、理論武装なりしてから語ればよい。そうでないと、いい加減なことを語って反論されても、再反論ができなくなってしまう。教育は誰でも受けて大人になるわけだから、誰にだって言いたいことはあるだろう。だが、結局は「餅は餅屋」であり、餅屋を説得するには餅のことをよく知らなければならないのだ。