持田哲郎(言語教師@文法能力開発)のブログ

大学受験指導を含む文法教育・言語技術教育について書き綴っています。

ゼミのこと

学部時代

ゼミというのは、担当教員の方針によってさまざまな文化を持つ空間である。学部時代のゼミは、時間を気にせずに議論をしていこうという方針*1で、4限開始時刻である15:00から始まり、終わりは20:00以降、というのが当然であった。ゼミ生一人一人の研究についても自由放任主義で、思い思いのテーマを思い思いの方法で進めていた。もちろん、学部生が皆そうした環境でまともな研究ができるわけでもないが、ゼミ生相互の「共助」の精神でそれなりに形にしていった。
私自身、学部では授業をしっかり聞いて知識を身に付けて、という発想はなかった。必要なことは独学で身に付けた。基礎を分かりやすく講義してくださる先生が何人かいらっしゃって、その方々の授業は確かに役に立った。だが、それだけではやはり不十分なので、足りないところは自分で補っていった。こうしたスタンスのせいか、ゼミで特に困ることもなかった。ただ適当にやっていただけなのかもしれないが。
私が進級し、卒業するにつれて、後輩達が私のことを「カリスマ」だの何だのと持ち上げるようになっていった。自分では適当にやっていただけだと思っていたから、そうした評価には非常に戸惑った。一応は「演習論文」という形にまとめはしたが、論文などという代物ではない。私は学部時代にやったことは、最低限の常識を身に付けただけである。それ以上でもそれ以下でもないのだ。

今のこと

学部時代に常識を身に付けたし、今も仕事をしていくうえで必要な知識は完璧にはほど遠いにしても、ある程度は身に付けていると自負している。だが、大学院に入ってみると、自分の不勉強さに愕然とした。読まなければならない文献が膨大で、その大半は読んだこともないもので、なかにはその存在すら知らなかったものもあった。学部時代に身に付けたもので役立っているのは、独学の精神くらいだと思う。しかもゼミというのは、少人数によって密室で行われる。自分の研究が本当に正しい方向に向かっているのかどうかを判断するには、あまりににもコミュニティが小さすぎる。学部時代は適当だったのでそんなことは気にもしなかったが、大学院ではそうしたことにも不安を覚える。難しいと思いつつも、町田先生に全幅の信頼を寄せ、修士論文につなげていきたい。

*1:良く言えば、であるが・・・