持田哲郎(言語教師@文法能力開発)のブログ

大学受験指導を含む文法教育・言語技術教育について書き綴っています。

これでいいのか受験指導

大学の授業について行けない優等生

数年前、大学の後輩でゼミの発表がうまくできないと悩む学生がいた。話を聞いていると、高校時代は成績優秀であったらしい。教師が示すものを何の疑いもなくただ覚える。その繰り返しで定期試験をクリアし、評定平均を積み上げて大学進学を果たすというのは決してめずらしいことではないだろう。いまではそうした学習経験しかない者でも一般受験で大学に入ることも多いと聞く。

思考の欠如

ただ覚えること。覚えたことをどう生かすのかは反復のなせる技である、と。これが高校の受験指導の現実であることが多い。覚えないのは生徒の責任とばかりに、単熟語集や問題・解説が見開きの左右ページに割り付けられているような問題集を買わせ、小テストを行う。授業では答えと関与する知識を断片的に教師が述べるにとどまる。解説に費やす時間を圧縮し、その分を演習につぎ込む。ここには思考というものはない。
これは非常に厳しい授業である。同時に手抜き授業でもある。生徒は進級や卒業がかかってくるから、必死に授業に食らいついていくしかない。だから教師が授業で手抜きをしているとは気付かないであろう。まして入学してから一貫してこのような授業を受けていれば、高校の授業とはそういうものだと思いこむのも無理はない。確かに一部の生徒はこの悪戦苦闘の過程で英文を読み入試問題に答える術を会得していく。だが、多くの生徒は何となく解けるようになった気がするものの、英語に自信が持てる状況にはほど遠かったりする場合がほとんどである。
文章理解の過程、解答の過程を明示化し、意識化させ、追実践による制御的処理を経て自動的処理に至る。受験英語というのはそういうものではないだろうか。その過程では、生徒が自ら「頭を使う」ことが求められる。これを授業で行うには、そうした授業になるような準備を教師が行わなければならない。だが、受験指導など大学の英語科教育法で学ぶわけでもないため、こうした授業づくりは多くの場合、教師の独自の試行錯誤の賜物である。私自身、英語科教育法の授業は役に立っているという感覚がない。もっとも、大学というのは授業の質に期待するところではないのかもしれない。しかし、その負の期待感を高校に持ち込んではならないとも思うのだ。