持田哲郎(言語教師@文法能力開発)のブログ

大学受験指導を含む文法教育・言語技術教育について書き綴っています。

なぜ頭を使わないのか。

「できる子」と「できない子」

わざわざカギ括弧を付けているということは、必ずしも本来の意味合いでこれらの表現を使っているわけではないということである。
英語Iや英語IIが「できる子」というのは、教科書の全訳を予習で試み、授業では訳せなかった箇所や訳し間違えた箇所をチェックする。教師が黒板に書いた文法語法の知識をノートに写す。これをテストまでに覚えて高得点をたたき出す。「できない子」というのは、予習はせず、訳を聴き取ってノートに写し、板書もただ写す。復習はやらない。だからテストの得点は低い。これで英語が読めるようになるのか、書けるようになるのか、と言えば、もちろん答えは否、である。
これは訳読の授業で起こる典型的な現象である。文法訳読ではない、ただの訳読である。文法訳読というのは「意味理解前訳」という中間言語的な日本語を媒介としながら、文法知識を駆使して主に文レベルでの英文理解に習熟していく学習活動である。こういう語順になっているからこういう意味になるのではないか、あるいはこういう意味になるのかなと思ったらこんな語がこんなところに出てきた、などということを考え、悩みながら英文を理解していく営みなのである。これはリーディングとか文章理解と呼ばれる行為のすべてではない。その行為を可能にするための学習活動の1つにすぎない。英語の読みということを学ぶためには、学習段階のどこかでこういった泥臭い、地道な作業が必要なのである。

「語句知識」から飛び出せない子たち

文法訳読とは、文法知識を覚える活動ではなく、文法知識を使う活動である。だが実際には知識を覚えることに終始してしまって、使うことに意識が向いていない生徒が多い。いや、そのことに気付いていない教師も少なくない。いわゆる「語句知識」を覚えることが英語の勉強だと思っているのだから文理解は当然覚束ない。いわんや文脈へと視野を広げていくことなどできない。
高3の「リーディング」の授業でも意識改革に相当の時間が掛かったが、高1の「英語I」の授業では前任者から引き継いでまだ3週間ほど。本来なら文法訳読による読解文法への習熟は1年のうちにある程度のめどが立たないとならないのだが、現状は非常に厳しい状況にあると言わざるを得ない。小テストの形式や回数などもこれまでのものを継承しなければならないため、あの手この手で意識を喚起というわけにもいかない。それでも何かやらねばならない。何かやらなければ私が教壇に立つ意味がない。誰がやっても同じ授業なら他の人がやればいいのだ。