持田哲郎(言語教師@文法能力開発)のブログ

大学受験指導を含む文法教育・言語技術教育について書き綴っています。

半年を振り返って

「文章付きグラマー」からの脱却の苦悩

年度途中から高校の非常勤講師を務める機会を得て半年が経ち、3年生の授業が無事終了した。この半年で一番苦労したのは、リーディングの授業をリーディングの授業にしていくことであった。受験指導か受験指導でないかという問題以前に、リーディングの授業が成立していない現状が目の前にあった。文章中の文法・語法現象を断片的・恣意的に取り上げて、それを板書し、生徒がそれをノートに写すという営みがただ行われているだけだったのだ。文法訳読が批判されるようになって久しいが、訳読のほうがましである。どうすれば英文が理解できるのかについて、それなりの道筋が示されるのだから。でも今は違う。文章はおまけである。刺身のつまのようなもので、つまによって上げ底されたところに、薄く切った刺身がのっかっているような、それが「文章付きグラマー」なのだ。

英語I・英語IIへの疑問

学習指導要領に書いてあることは理解できる。だが、現場の英語I・英語IIで行われていることが理解できなかった。1年・2年と重要なことを先延ばしにして、3年になってリーディングにたどり着く。入試問題を素材にした設問付きのテキストであるのだが、設問の解法に終始できるような土台は生徒にはなかった。受験指導に終始することに疑問を抱く教師も少なくないが、そもそも現場はそのレベルに到達していなかったりもする。できない子たちだから仕方がないという声も聞く。しかし、できないことをできるようにするために学校はあるのだ。

予備校依存の現実

生徒はもはや学校の授業に期待をしていない。教師の側も高校のカリキュラムで学習指導を完結させようという意欲に乏しい気がする。大したことやっていない予備校でもそれなりに繁盛するのは、大したことをしていない高校の存在がその背景にあるからだということがよく分かった。高校がまず失地回復のための努力をし、予備校が本来の付加価値を提供する力を回復させていくことが必要である。自分一人がじたばたしても仕方がないという教師も多い。だが、学校と言うところほど、「まずは隗より始めよ」が効果を上げるところもないと実感した。自分の仕事の質を上げれば、図らずもそれは周囲の教師に何らかの影響を及ぼす。甘いというご指摘も覚悟だが、私としてはこの1点に期待をしつつ、自らの精進に努めていきたい。