単語集と下線部和訳
単語テストというゲーム
高校の現場でよく行われている単語テストだが、私の勤務校でもご多分に漏れず行われている。しかも、1回100題というボリュームである。授業の冒頭でこれを実施するために、記号で答えるようにし、答え合わせを円滑に行えるようにしてある。続けて投げ込みの読解問題演習(小テスト形式)を行うことになっているのだが、得点の相関性は残念ながら、ない。特に下線部和訳に至っては、解答欄を空欄のまま提出する生徒が多い。だが彼らでも単語テストの点数は悪くなかったりする。
ここで私は、こうした単語テストが無意味だとは言わない。単語に触れるきっかけという意味で、単語テストの効用はそれなりにあると考える。大事なことは、とりあえず覚えた語彙知識を実際の読解や作文に使えるような状態に移行させることである。私は各課が終了するごとに、単語集のものとは別の単語テストを実施している。これはB4判で、左側に下線や空欄を外した、いわゆる「白文」状態の英文、右側に10箇所の空欄を設けた和訳を配置し、左側の英文を読みながら左側の和訳を埋めていくというものである。採点にあたっては、辞書的な訳語でなくとも、文脈に即した訳語を幅広く正解として認めるようにしている。
ボトムアップ処理の能力について
ボトムアップ処理は語彙力だけで可能となるわけではない。文法力を付けさせていくことが、ここではどうしても避けられなくなる。私個人の考えとしては、リーディングの一定のレベルまでの指導は、文レベルの文法知識の習熟と、その知識の文理解への応用に徹するべきだと思う*1。だが、文法中心や訳読偏重の授業は時代遅れで役立たずという認識が広まっているせいか、こういう地道な学習が授業で扱われることはあまり多くないようである。
確かに、高校3年間すべての読解教材で文法訳読に終始していたならば、そうした批判に甘んじなければならないのかもしれない。だが、どんな文章をどのような目的で読むにしても、文レベルでの理解が必要である以上、その理解を支える読解文法の知識を身につけることが、どうしても必要なのだ。このブログでは繰り返しになるが、パラリー批判する構文原理主義も、訳読批判するパラリー原理主義も、いずれも説得力を持たないのである*2。