持田哲郎(言語教師@文法能力開発)のブログ

大学受験指導を含む文法教育・言語技術教育について書き綴っています。

文章におけるレトリックとは何か(その5)

目的の把握

小林(1954)は、理想的な文章とは何かという問いについて、旧修辞学と近代の言語美学との対比を取り上げている。旧修辞学では一定の型が設定され、その型にあてはまった文章が理想的な文章だという。これに対して近代の言語美学では「場の函数」という、書き手の置かれている社会的情況や当面の状態などの要求に適った文章が理想的な文章だという。この場の函数という考え方は、言語美学という枠の中だけで語られているものではなく、時枝(1941)の言語過程説や深谷・田中(1996)の意味づけ論でも言及されており、コミュニケーションの実相を捉えたものと言える。小林は、この「場」には大きく分けて2種類あるという。日常生活の世界と芸術の世界である。すなわち実用文と芸術文(=文学)である。小林は実用文では目的が重要になるという。書き手が読み手にどのような行動をとらせたいのかという意図が、文章を書く際に働くのだという。これは照屋(2006)による読み手の把握に通じるもので、読み手の把握は文章を書く目的の把握につながるのである。
学校での作文教育は、読み手を想定しない自己表出としての文章を書くことから出発する。これは綴方教育からの伝統である。しかし、綴方の考えが短絡的に捉えられた結果、作文教育が文学志向になりがちになっている*1。綴方において、まず取りかかりとして学ぶべきは実用文でも芸術文でもない、中立的なであるべきで、そうでなければ、綴方運動が起こった当時の、模倣主義からの脱却という理念が実現できない。にもかかわらず、作文教育は文学志向である。これが受験小論文になると「論文は作文とは違います」という話になり、論文の型が仕込まれる。これらの傾向は、新たな模倣主義ではなかろうか。「コミュニケーション」という言葉が狭い意味で用いられた結果、作文教育が取り残されているのではないか。作文がコミュニカティブであるには、誰が、誰に、何を、何のために書くのか、ということに自覚的になるのが当然ではないだろうか。

参考文献

*1:これが絶対に間違っているとは言わない。私自身も小学校時代に『けやき』に詩が載ったことがあり、そこまで学習活動が現在の私の言語生活と無関係ではないと思っている。