持田哲郎(言語教師@文法能力開発)のブログ

大学受験指導を含む文法教育・言語技術教育について書き綴っています。

「評論文」とは何か(その3)

「評論文」は論理的なのか

受験現代文では「文章を論理的に読む」と言う。だが、その対象となる文章がどの程度論理的なのであろうか。西尾(1954)は、近代の文章では起承転結などの形式的構成法が排除されてきたと指摘している。そうした文章は近代の文章としての資質を備えているとは言えず、段落相互の関係を示す接続詞や代名詞の使われ方も恣意的だという。しかし同時に西尾は、文章がコミュニケーションの一手段である以上、そこに客観的な約束事が必要であると主張している。西尾の言う「近代の文章」は明治以降の口語体による文章を指している。この指摘から50年以上経過した現在の状況はどうであろうか。
吉田(1955)によれば、日本における評論とは当初、その目的も書くべき内容を明確ではなかったという。目的も内容も決まらなければ、表現の方向性が定まらないのは当然である。さらに、評論は思想を語るものという考えが流布していたため、内容面の充実が形式面の整備に先行していたという。その結果、「偉そうなことを言う方が、説得力のある文章を書くことを心掛けるのよりも、評論では大事なのだということ」(吉田1955:163)になってしまったという。吉田はさらにこう続けている。

表現する苦労が足りない思想とは一体何なのか。他人にはっきりした輪郭が示せない思想が、自分にだけはっきりしているということがある筈はない。思想は言葉で言い表されて始めてはっきりするのである。言うに言われぬ、などというのは逃げ口上に過ぎない。言うに言われないものは、つねに人間の思想の埒外にあって思想の対象にはならないものか、でなければ、まだそれに関する思索が足りないのである。(吉田1955:167)

どうやら根が深そうである。とても、現在すべて解決済みという感じではないだろう。

参考文献

  • 西尾実(1954)「ことばと文章−口語文の革新と提言−」川端他(編)『文章表現』(文章講座3)河出書房.
  • 吉田健一(1955)「評論の文章構成」川端他(編)『文章構成』(文章講座2)河出書房.