持田哲郎(言語教師@文法能力開発)のブログ

大学受験指導を含む文法教育・言語技術教育について書き綴っています。

はぁ?

妙な対立図式は続く

このブログを始めた頃、英語教育の世界に妙な対立図式があるということに触れた*1。しかし、この構図は根強いし、しかも当事者たちの自覚が希薄である。コミュニケーションを教えるから文法は教えない。コミュニケーションなんて軽薄なものよりもしっかりと文法から学ぶべきという声がいまだに聞こえる。こうした状況の背景には、「コミュニケーション」や「文法」がいったい何であるかという根本的なところでの認識不足があるのはもちろんである。しかし、この認識不足に至った原因は教師の学力にあるのではないか、という気がするのである。

学力不足―私の場合

私は英語が話せない、というのは大げさだが、少なくとも通訳で報酬がいただけるようなレベルでは話せない*2。日常会話もできる方ではない。英語圏で生活したり、英語話者とともに生活した経験がないからだ。しかし、都心ならば英語で道案内や乗換案内をすることくらいはできるし*3、自分が関わる業界ならば仕事での打ち合わせも何とかできる。洋画はスクリーンの真ん中を見ていても理解できるし、ラジオの国際放送も聴いて理解できる*4。ただ、この程度の英語力だと、正直言って米朝協議について英語で議論するなどということを授業でやるにはためらいがあると認めざるを得ない。
私は大学受験の時、国語が苦手だった。高校時代は数学が苦手だった。もし、当時の苦手意識をそのまま引きずっていたならば、文法を教えたり、訳読で授業をしたりするのもままならなかったであろう。文法を明示的に教えるには、日本語との対比をまず教師が的確に把握していなければならないし、文法の枠組みを見直すのに必要な言語理論の中には数学力があった方が理解しやすいものがあるからである。また、訳読というのは英文の意味を日本語で書き表さなければならないから、国語が苦手なようではうまくいくはずがない。

入試と大学と学力不足

私立大学では、外国語学部の一般入試は外国語と国語(現代文)の2教科であることが少なくない。外国語の配点は。通常国語の2倍である。3教科受験の大学もあるが、数学が選択できる大学は少数である。高校で必修科目の履修不足が発覚すると、発覚しなかった高校のことを「ずるい」という始末だ。こうした状況では、好きな科目、分野だけを勉強して、そうでない分野からは目をそらすことができる。そして、「コミュニケーション」の定義を自分に都合が良いように狭く捉え、「英会話」以外の要素を排除してしまう。
文学部出身の教師は英語のスピーキングの訓練を十分に経験していないので、スピーキングの指導には及び腰である*5。どうしても、テクストの精読という「得意技」に拘泥する傾向がある。予備校の教壇に立つ、社会科学系の学部出身の講師にも、同様の傾向がある。では、そういう人たちが文法をよく知るのかというと、受験英語の枠組みから脱却できていないことが多い。

さて、もっと勉強することにしよう。

*1:http://d.hatena.ne.jp/ownricefield/20051025#p1を参照

*2:もっとも、英語が話せる=通訳ができるという世間一般の認識にも問題がある。

*3:残念ながら大阪ではできない。環状線の駅名すら順番に言えるかどうか怪しい。大阪の次は野田だっけ、福島だっけ?When I visit Osaka, I usually take the rapid service...

*4:昔は田舎では洋楽の情報が少なかったので、BBCのMultitrackは重宝した。

*5:もっとも、たいていの大学では、外国語学部であっても、英語力の向上に関わる授業はそれほど充実しているわけではない。1990年代の獨協もしかり。