持田哲郎(言語教師@文法能力開発)のブログ

大学受験指導を含む文法教育・言語技術教育について書き綴っています。

「書くこと」の基本または根源

書く内容の重要性

日本語にしても英語にしても、文章を書くときには書く内容が重要であることは言うまでもない。英語で語彙・文法・発音などの知識を身につけても話す内容を持っていなければ、英語を話すことはできない。すると話す内容というのは、英語学習以前に日本語を話す際にも重要なのだから、国語教育で扱うべき問題という考え方もできる(寺島1986)。さらに聞き手などの場面の制約を受けやすい「話すこと」に比べて、自分自身のみを読み手として想定して自由に、しかも時間もかけることができる「書くこと」でまず、内容を考えていくのが適切ではないかという考え方に至る。
松永(2003)は書く内容の中心となるものを単語で書き出し、その単語に関連して思いつくものをすべて書き出してゆくことによって、書くべき内容を浮かび上がらせる「観念抽出」という方法を提案している。松永は小学校の作文の授業において、児童が与えられた題に沿った作文がうまく書けるようにならないうちに添削されてしまうために苦手意識を抱いてしまっていると指摘している。清水(1959:90)は「現在は、例外もあろうが、小学校、中学校、高等学校に綴方や作文の時間が殆どないようである」と述べていように、綴方教育に熱心な一部の学校をのぞいて、松永の指摘が多くの学校国語教育に当てはまるものと思われる。
もちろん清水の指摘は40年以上前のものであり、現在の国語教育に当てはまるものかどうかという問題がある。しかし岩間(2004)でも何をどのように書いたらいいのか分からない生徒の存在が指摘されており、この問題が現在もなお解決できてないことを物語っている。ただその岩間でさえも、現在「書く力」として求められているものが相手に的確に伝わる文章を書く力であると述べている。これ「何を」「どのように」書いたらよいか分からない生徒に対して「どのように」の部分だけを提示し、「何を」についての問題を棚上げにしてしまっている。

レトリックの復権と書く内容

岩間が述べているような「相手に的確に伝わる文章」が書けることが求められている背景には、情報化社会の進展に呼応した西洋レトリックの移入がある。紀元前5世紀の古代ギリシアに端を発する西洋レトリックは、問題を論理的に分析してその解決策を的確に相手に伝えていくうえで有効である。従来の日本のレトリックは説得よりも感得を重んじる。この場合、文章もまた書き手と読み手との共同作業によってテクストを構築していく柔軟性を持つ反面、読み手に過度の負担をかけ、多様な解釈を許す曖昧さを残すことにもなりかねない。その意味では、時と場合によって西洋レトリックによる文章を書くことができるということは、日本語においても大切なことである。
しかしこのことは、書く方法を重視して書く内容を軽視することにはならないし、書く内容軽視してはならないのである。森岡(1962)にまとめられているようにアメリカのレトリックやコンポジションの教本には主題や材料を扱う項目があり、「どう書くのか」だけでなく「何を書くのか」ということに関しても学ぶことができるようになっている。作文学習において、書く内容と書く方法は対等に扱う必要があるといえる。

文章表現過程に沿う

書く内容と書く方法ではどちらが先か。これは前者を優先させるべきであり、松永(2003)の「観念抽出」のようなブレインストーミングが有効である。松永はこれを学習者が1人で行うことを提案しているが、複数の学習者で意見を出し合うことも、学校などでは効果的であろう。短期間の、試験対策の文章技術指導などでは、先に西洋レトリックや文法・表記などの形式を先に提示していくことも必要だが、ある程度時間がかけられるのであれば、「何を」→「どのように」書いていくのかという手順で学んでいくことが理想的である*1

参考文献

常識破りの日本語文章術

常識破りの日本語文章術

論文の書き方 (岩波新書)

論文の書き方 (岩波新書)

*1:とはいえ、大学入試や公務員試験のように半年から1年程度の準備期間があるのであれば、内容から方法という手順で学習を進めることは十分可能である。