持田哲郎(言語教師@文法能力開発)のブログ

大学受験指導を含む文法教育・言語技術教育について書き綴っています。

記号論と学習文法

シニフィアンシニフィエ

ソシュール(1940)は言語記号が表現と意味を同時に備えた二重の存在であると考え、前者をシニフィアン(signifiant)、後者をシニフィエ(signifié)と名付けた*1シニフィアンシニフィエは相互依存的であり、お互いの存在と前提としなければ存在し得ない。ソシュール言語学の対象は言語記号であって、分離されたシニフィエシニフィアンではないと主張した。
バルト(1971)はシニフィアンシニフィエの仲介者であるに過ぎないと指摘している。人間を取り巻く世界は言語記号によって分節化されるが、分節化された「意味」(=シニフィエ)にはシニフィアンを通してでしか到達することはできないのである。仮に同じシニフィエの仲介をする場合でも唯一絶対的なシニフィアンによって仲介されなければならないというものではないとバルトは指摘する。これが言語記号の恣意性と呼ばれるものである。

「記号」と学習文法

言語を「記号」と捉えた場合、学習文法にとって次のような点に留意すべきであるということが改めて浮かび上がってくる。

  1. 言語は形式と意味によって成り立っていること。
  2. 言語の形式は意味をとらえる手段であること。
  3. 同じ内容を表す場合でも言語によって表現が異なること。
  4. 外部世界の分節の仕方が言語によって異なる可能性があること。

1.は形態統語論と意味論の両方からの取り組みが必要であることを、2.は形態統語的知識の学習の重要性と限界を、3.は母語と学習対象言語の差異を知ることの重要性を、4.は母語を介して対象言語を学ぶ限界を、改めて気付かせてくれる*2。今となってはソシュールやバルトの理論は素朴で思弁的な印象を抱かせるものかもしれないが、言語というものの本質を大づかみにするには最新の言語理論よりも、こうした「古典」に触れることが重要であるように思われる。

参考文献

*1:ソシュール(1940)では概念と聴覚映像との結合を記号(signe)と呼ぶ、という書き方をしているが、丸山(1981)はこれを誤解を招く言い方だと指摘している。

*2:ソシュールやバルトの言うシニフィアンとは第一義的には音韻であるが、ここでは生成文法で言うPFに送られるS構造のようなものを想定して論じている。