持田哲郎(言語教師@文法能力開発)のブログ

大学受験指導を含む文法教育・言語技術教育について書き綴っています。

国際英語論について少々

母語としての英語と公用語としての英語

世界中で「母語」として英語を使用する人の数は4億人に満たない。しかも北米や「連合王国」には実際には英語を母語としない人も相当数に上るので、統計の取り方によってはもっと少ない数字がはじき出されるかもしれない。
アジアやアフリカにおけるイギリスの旧植民地では英語が公用語となっている国が多い。また台湾、中国、韓国においても英語教育に力を入れ始めており、アジアにおいて英語は共通語としての地位を築きつつある。

「怪しげな英語」?

11月28日の朝日新聞に「グローバルコミュニケーションと日本人の英語」というフォーラムの模様が掲載されている。そこで元国連事務次長の明石康氏が現在国際共通語として機能している英語の実態についてお国なまりのあるちょっと怪しげな英語であると指摘している。同時に明石氏はある程度お国なまりの英語の方がそれぞれの国の考え方や感じ方の違いが感じられるので直すべきものではないといっている。この傾向はアジアにおいても同様であると言う。

中国語の台頭

11月29日の朝日新聞では中国政府は中国語の海外普及に積極的であると伝えている*1周辺諸国も中国の経済発展にともない、中国語がアジアにおいて英語と並ぶ共通語になるという見方を強めているようだ。
もちろん中国語の普及によって中国の影響力が拡大するのではないかという懸念もある。中国の政府当局はこれを否定するが、言語によって国の影響力に違いが出るのは確かである。

日本の進むべき道

前述のフォーラムで明石康氏は日本人が英語を学ばなければならない理由を2つ挙げている。

  • 日本ないしは日本人が国際的存在感を示すため
  • 国際コミュニケーションにより各国と協調していくため

このためには小学校の段階から英語教育を行うべきだという考えが明石氏を含めてこのフォーラムのパネリストから出されたようである。早い段階から英語を学ぶ場合と成人が英語を学ぶ場合で成果の差がもっともはっきりと現れるのが音声面であると言われている。もしそうであるならば、お国なまりを容認する明石氏のような立場で小学校英語教育を正当化する理由はないことになる。言語教育とは別の形で「国際理解教育」を具体化すればよいのである。
鈴木孝夫*2は英語国民の思考の枠組みや文化からできるだけ解放された英語を学ぶべきであると主張する。鈴木氏はそうした英語を学ぶことで、これまでネイティブスピーカーの英語を目標にすることで常に悩まされる不完全感から解放されるという。
しかし鈴木氏の考え方には問題がある。例えばテクストを読む際には克明に読む必要はなく、何が書いてあるかをつかむことを主眼とし、授業の重点はそのテクストに対しての反応や意見を討論することに置くべきだと提案するが、日本人学習者がどうすればテクストを読めるようになるのかが明らかではないため、これでは現実性に欠く。この問題に対して田中茂範氏*3は「学ぶ英語」と「使う英語」を意識的に区別すべきであると主張する。このためには文法や語彙などの言語知識を言語規範として捉えるのではなく、コミュニケーションをより効果的にするための手段として捉え直すことも必要であろう。こんなところからも学習文法を見直す糸口が見て取れるのである。
しかしながら、日本人がどう英語を学習し、使用していくかということだけでは明石氏のいう「国際的存在感」を日本が示すことはできない。津田幸男氏*4が指摘するように言語には政治、権力、イデオロギーと結び付くという側面があり、ASEAN諸国が中国語の普及に不安を抱く理由もまさにここにある。この問題に対処していくには日本語を少なくともアジアにおける共通語として英語や中国語などと共存できるようにすることを考えなければならない。
したがって世界での言語使用の実態を考えれば日本人が英語力を高めていく必要性はますます高まっているものの、同時に日本語の価値を高めていくことも考えていかなければならない。そうなると週5日制のもとでは国語や社会の授業時間数を削ってまでして小学校に英語教育を導入することには慎重にならざるを得ず、それよりも中学以降における英語教育のより一層の効率化を図っていくことのほうが重要であるというのがひとまずの結論になりそうである。

*1:もっとも朝日新聞は日本における英語公用語化を訴えているメディアであることにも注意が必要である

*2:鈴木孝夫(1975)『閉ざされた言語・日本語の世界』新潮社

*3:田中茂範・深谷昌弘(1998)『〈意味づけ論〉の展開』紀伊國屋書店

*4:津田幸男(1990)『英語支配の構造』第三書館